サザナミインコの飼い主の寄稿 サザナミインコのぴよちゃんが亡くなった時から、私の中にはとても大きな悲しみと後悔…そして喪失感が生まれました。
楽しいと思えたことや美味しいと思えた食べ物など、私にとって「喜び」だった多くのものが、それまで当たり前のように持っていた価値を失いました。
これは私が、私の中に生まれた悲しさや寂しさ、失くしてしまったことに向き合い、その結果「克服する」ことを止め「自分の中で抱えて生きる」選択をするに至ったお話です。
ペットロスはつらい次元が違った!サザナミインコのペットロス体験談
これまでいくつもの別れを経験してきました。
その中でも二人の父(実父と義父)との別れはとても悲しく、後悔を伴うものでもありました。特にそれまであまり会うことができなかった義父との別れの際には涙が止まりませんでした。
それでも、眠る・食べるなどの私の「日常」が変わることはありませんでした。亡くなった方との様々な思い出について考えたり、懐かしく思うことはあっても、涙が溢れて困った…はありませんでした。
そんな私でしたが、ぴよちゃんが亡くなった時は違いました。ただただ悲しく、涙が後から後から溢れてきて止まらないのです。
亡くなって1ヶ月が過ぎ、2ヶ月が過ぎ…1年が過ぎても、悲しみと寂しさが薄れることはなく…涙がでない日はありませんでした。
こう言うと「親の死より飼っているインコの死の方が悲しいのか?」と思われそうですが、人の死とペットの死は、その悲しみの種類・次元が違うのだと思います。
映画「かもめ食堂」の冒頭で主人公が「母のことは大好きだったが、なぜかナナオ(猫の名)が死んだときよりも涙の量は少なかった…」と振り返るシーンがあります。
これはなかなか実際には口に出せないけれど「ペットに対して持っている偽りのない気持ち」だと思います。
この映画はぴよちゃんがまだ元気な頃に観たのですが、その時「私もきっとこうなるだろう」そんな確かな予感があり、実際にその通りになりました。
私が守らなくてはいけない小さく儚い存在。私を信頼しいつもそばで甘えてくれる存在。ありのままの私を大好きでいてくれる存在。そんなかけがえのない存在が、私にとっては「ぴよちゃん」でした。
だからこそ失った悲しみと後悔も大きくて「これが本当の悲しみなんだ」と知ったのです。
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ペットロスの無気力から生まれた楽しくない・美味しいと感じられない感情
ぴよちゃんとの別れはそれまでの多くの「別れ」とは全く違う、私の「生活」そのものを変えるものでした。
それまで楽しいと思っていたこと、美味しいと思っていたものが、そう感じられなくなりました。
大好きだったゲームや料理や手芸。楽しみにしていたドラマやアニメ。家の中を整理したり自分好みに飾ること。すべてがどうでもいいものに変わり、特に価値があるとは思えないものに変わりました。
もともと食べること・料理をすることが大好きでしたが、それも一変しました。
ぴよちゃんが亡くなって数日経ち「食べないと、ちゃんとぴよちゃんを見送れなくなるかも…」との不安から、作り置きしていた塩豚をカットして食べたのですが…「美味しくない。食べたくない」と感じる自分がいました。
そんなことは初めてで、そう感じたことに自分でも驚きました。
その後、お肉は全て食べたいと思わなくなってしまい、魚介類中心の食生活が始まりました。一年が過ぎる頃「今ならなんだか食べられるような気がする」と思い、惣菜コーナーのトンカツを買って食べてみたところ、ようやく以前のように美味しく食べることができました。
それなら今度は自分で料理をしてみようと思い、精肉コーナーに行ったのですが、調理した肉は食べれるけれど「生肉は触れそうもない」に気付かされる結果となりました。
そして2年が過ぎた今は、塊肉をそのままオーブンで焼くなどの簡単な調理は、何とか出来るようになりました。
ペットロスは克服しなくてはいけないものなのか?
私が今も出来ていないことの中に「ぴよちゃんのケージを片づける」があります。
ぴよちゃんが亡くなって2ヶ月後にディスプレイ用のかわいい鳥かごを買いました。この中にぴよちゃんが使っていた止まり木の一部とテントを設置し、おもちゃやご飯を入れようと考えたのです。
鳥かごが届いて、止まり木を外そうとした瞬間、私は強い悲しみに襲われて、涙が止まらなくなりました。
そんな思いでいっぱいになってしまったのですが、そう思った瞬間に私は分かったのです。
友人が定期的にやって来ることがあるので、自分の思い込みから「いつかはケージを片付けなくてはならない」と考えていたのですが、その考えに縛られる必要はないのだとその時気付いたのです。
この「出来ないことを無理してすることはない」と気付いた瞬間から、私の心は霧が晴れていくように軽くなりました。
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ペットロス克服から「共存」を選んだ…わたしのペットロスのカタチ
私は自分が自由にしてよい範囲であるなら「克服する」「変える」努力をやめることにしました。
だからといって、悲しみや寂しさが消えるわけではありません。
「気持ちに整理をつけて変える努力をしないから、悲しみから立ち直れないのでは?」と思う方もいるでしょうが、その意見を否定する気はありませんし、飼い主さんの数だけペットロスの数もあるのだと思います。
悲しく寂しい気持ちがどんなに大きなものであっても、それはこれまで一緒に過ごした楽しい時間と想いがあればこそ。
だからこそ、その悲しみや寂しさを、ぴよちゃんがくれた「宝物」として、しっかり抱えていたいと思うのです。
ペットロス「克服」の呪縛から自分自身を解放し、出来なくなったことも悲しみも寂しさも全部認めて受け入れて、共に生きていく「共存」
それが私の選んだペットロスのカタチです。