夕張保険金放火殺人事件 (日高安政・日高信子)

夕張保険金殺人事件

保険金目的の放火殺人事件

1984年5月5日午後10時50分頃、北海道夕張市の炭住街にある炭鉱下請け業「日高工業」の作業員宿舎から出火した。

全焼した焼け跡から作業員・佐藤忠勝さんら同宿の子供を含む6人の焼死体が見つかった。

2階から飛び降りた作業員・石川清(24歳)が重傷、ほかに消防士一人が消火作業中の事故で死亡した。

警察と消防署で調べたところ、この日は夕方から夜の10時過ぎまで、石川清の入寮を祝ってジンギスカン鍋を囲んだ飲み会が行われていたという。

出火はそのときに使用した石油ストーブか、焼肉用電熱板の不始末によるものと認定された。

罹災証明書を得た日高工業の社長・日高安政(41歳)とその妻・日高信子(41)は、5月下旬から7月にかけて 火災保険と死亡した従業員にかけていた生命保険をあわせて、1億3800万円を得ていた。

そんな中、7月18日に入院治療中の石川清が突如失踪した。

そして8月15日、夕張警察署に「火事のことで話がしたい」と電話を入れてきた。

話とは、日高安政・信子夫妻がもくろんだ保険金目的の放火のことだった。

石川清は放火の実行犯として、日高夫妻から消される恐怖から逃れるために名乗り出てきたのだった。
 
 
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日高安政と日高信子の生い立ち

日高安政は1943年、北海道様似街で7人兄弟の6番目として生まれた。

戦後に一家は夕張に移り住んだが、6歳で父親が亡くなり母子家庭となった。

兄たちの影響もあって 日高安政は小さいときから店舗荒らしや賽銭泥棒などを繰り返し、小学6年生のときに教護院に収容され、そこで中学までの義務教育を終えた。

そのあとはトラック運転手や坑内員、調理師見習いなど職を転々とし、17歳の頃からヤクザの世界に出入りするようになった。

1969年に結婚して子供をもうけたが、バーで働いていた信子と知り合い、1972年にお互いの子供を連れて再婚し、その後に二人の間にも子供が一人生まれている。
 
 
日高信子は1946年、夕張で炭鉱員の父の元に、7人兄弟の四女として生まれた。

高校時代は不良少女として名前が通っていたが、卒業後は上京して美容師学校に通った。

1年後に夕張に戻り、交際を続けていた暴力団構成員の男と結婚し一児をもうけたものの夫をガンでなくし、市内のバーでホステスをしているときに日高安政と知り合った。
 
 
結婚した二人は1970年頃から、三菱大夕張炭鉱の下請け会社「日高班」として、坑内員を炭鉱現場に送り込む仕事を始めた。

1977年からは暴力団「日高組」として初代誠友会日高組長を名乗り、金融業や水商売に手を出したが、内情は火の車で、その台所を仕切っていたのは 姐さんとしての信子だった。

覚せい剤事件で服役していた日高安政に代わり、信子が社長業を切り盛りしていたときに起こったのが 1981年の北炭夕張新鉱の大事故である。

この事故では93人の犠牲者が出て、日高の会社でも派遣していた作業員7人が死亡している。

それにより保険金や保証金など約1億円の思わぬ入金が二人の下に転がり込んだ。

しかしこの1億円は2年ともたなかった。

事故半年後に出所した日高安政は、白亜2階建ての「日高御殿」を新築した。

子供たちにはポニーを買い与え、妻にはスナックの全面改装とアクセサリー店やダイエット食品販売店の開業資金。

自分には車を高級外車リンカーンに乗り換えて事業活動。

これらで湯水のごとく大金を使い果たしてしまった。

残ったのは羽振りがよかった頃の思い出と借金だけ・・・炭鉱町はすでに時代の舞台を下りていた。

日高安政
夕張はもうだめだ。札幌に出て、デートクラブでもやるか。

そこでもう一度夢を見るために企てられたのが作業員宿舎への放火だった。

しかし再び大金を手にしても事業計画に結びつくことはなく、バブリーな生活には拍車がかかるばかり。

二人が逮捕されるまでのわずかひと月あまりで、1億円を使い果たしていた。
 
 


 
 

死刑確定と恩赦

1987年3月4日、まず放火の実行犯の石川清に一審で無期懲役の判決が言い渡された。

そして3月9日、日高安政と日高信子に未必の殺意を認めて死刑判決が言い渡された。

日高夫妻は共に控訴したが、1988年10月11日に日高信子が、10月13日に日高安政が控訴を取り下げ、自ら死刑を確定させた。

なぜそんなことをしたのか?

この時期には昭和天皇の危篤状態が続いており、死去に伴う大喪の礼や新天皇の即位の礼での恩赦ではその対象に確定死刑囚も含まれるという情報があったからだ。

その情報に、日高安政と日高信子は賭けたのだったが、実際には恩赦は行われなかった。

その後日高安政は1996年5月10日に「死刑判決を受け、精神的にも不安定で法律知識もないままに恩赦があると誤信した」として控訴審の再開を札幌高裁に申し立てたが、高裁はこれを棄却し、最高裁への特別抗告も1997年5月30日に棄却された。
 


 
そして二人そろっての死刑が、その2ヵ月後の1997年8月1日、まず安政が午前10時、続いて信子が11時58分に、札幌拘置支所で執行された。

夫婦での執行は戦後初、日高信子は女性としては戦後3人目の処刑だった。

日高安政は54歳没。

日高信子は51歳没。

同じ日に、東京拘置所で永山則夫の死刑も執行されている。
 
 
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世田谷区上北沢の放火殺人未遂