吉展(よしのぶ)ちゃん誘拐殺人事件犯人 小原保 vs 平塚八兵衛刑事

 
吉展ちゃん事件 小原保

1963年3月31日 吉展ちゃん行方不明になる

 


 

村越吉展(むらこしよしのぶ)ちゃん(当時4歳)が行方不明になったのは1963年(昭和38年)3月31日夕方。

吉展ちゃんは遊んでいた台東区立入谷南公園から忽然と姿をけし、新聞紙上では「誘拐」ではなく「行方不明」と報じられた。

1963年4月1日 吉展ちゃん誘拐捜査本部設置

公園にいた吉展ちゃんが30代男性から声を掛けられていた目撃情報があり、警察は捜査本部を立ち上げる。

1963年4月2日 身代金要求の電話が始まる

後に犯人の小原保(おばらたもつ)のアリバイ崩しの元となる「日暮里大火」もこの日に起こっている。

小原保は、新聞記事を見て誘拐した子供の父親が村越繁雄さんであることを確認し、村越工務店に身代金50万円を要求する電話を掛け、その後も、毎日のように身代金要求の電話が続いた。

1963年4月6日 電話ボックスに現金を持ってこい

小原保(電話)
子供は寝ている。

これから金を持ってくる所を指定する。

上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持って来い。

警察へは連絡するな。

吉展ちゃんの母親は現金をもって指定された電話ボックスに行ったものの、犯人は現れず。

母親は電話ボックスに「現金は持ち帰ります。また連絡ください」のメモを残したが、結局ここに犯人が現れることはなかった。

小原保
電話ボックスには警官がいて近づけなかった。

今度は証拠として子供の靴を置くから、そこに現金をおけ

 
 
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1963年4月7日 身代金要求最後の電話

そして4月7日に再び身代金要求の8回目の電話が鳴った。

この時、村越家には6人の刑事が張り込んでいた。

小原保(電話)
今すぐ金を持ってこい。お母さん一人でこい。

お宅からまっすぐ来ると昭和通りに突き当たったところに 品川自動車というのがあって、その横に車が五台停まっている。

三番目の車の荷台に証拠品を置いておく。

吉展ちゃんの母親が車(トヨエース)で現金を持っていくことになった。

そして刑事たちは先に指定場所に行って待機し、犯人が現れるのを待つことにした。

ところがここで重大な手違いが発生してしまった。

トヨエースを運転していたのは村越工務店の使用人だったが、合図を待たずに車を出発させてしまったのだ。

だから吉展ちゃんの母親が指定された荷台に現金を置いたときには、待機するはずの刑事たちがまだ到着していなかったのである。

指定された車の荷台には、吉展ちゃんの靴が置いてあった。

刑事たちのたった3分の遅れが災いして、彼らが現場に到着したときには、すでに荷台に置いた50万円は犯人に持ち去られた後だった・・・警察の大失態である。

この時 犯人に渡した50万円は本物の紙幣だったが、紙幣のナンバーを控えておかなかったことが、その後の捜査が長引く一因となった。

以降、犯人からの連絡は途絶え、吉展ちゃんの行方も依然として分からないままだった。
 
 
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1963年4月19日 異例の公開捜査

この日警察当局は、4月7日の大失態も含めて これまで非公開だった吉展ちゃん事件の捜査経過を公表した。

そして4月25日には、録音した犯人の声をラジオとテレビで公開した。

電話の逆探知ができず、犯人の声を録音することしかできなかったが、この声を公表することにより、捜査当局にはたくさんの情報が寄せられた。

しかし、この情報の多さが逆に仇になり、結果的には捜査を混乱させる原因となってしまった。

犯人の声は東北大学の鬼春人講師が解析し、「郡山以南」の東北なまりがあり、声の主の年齢は40~55歳であろうとされた。

しかし、後にこの犯人像の年齢の判定が捜査のネックになるのである。

2度の取り調べでも小原保(おばらたもつ・当時30歳)はシロ

犯人の声をラジオ・テレビで公開したことにより、4/25だけで541件もの情報提供が寄せられた。

その中の1件は警視庁愛宕署に訪れた一人の男によってもたらされている。

その人は小原保の実弟で、犯人の声が兄の声に似ているという。

後になってこれが重大な情報だったことがわかるが、この時には事件の解決に結び付けられることはなかった。

小原保を名指しする情報は9件もあったにもかかわらず、この時別件逮捕で取り調べを受けた小原はシロと判断されたのである。

その理由は3つあった。

■電話の声の犯人像(40~55歳)とは 小原保はだいぶ年齢が違う(小原は当時30歳)

■小原保は足が悪いので犯行は無理(足が不自由にしては、金が持ち去られたときの逃げ足が早かった)

■小原保にはアリバイとその目撃証言があった(4月3日まで郷里の福島に帰っていると供述)
 
 
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1965年5月 昭和の名刑事・平塚八兵衛(ひらつかはちべえ)登場!

捜査の進展がなく、2年の月日が経過し、捜査が完全に行き詰まった頃。

平塚八兵衛刑事をはじめとする新メンバーが捜査本部に加わることになった。

警察組織はこういう措置に踏み切るのは本意ではなかった・・・なぜならこの措置は、旧捜査陣のメンツをつぶすことになるからだ。

しかし事件の重大性を鑑みると、警視庁としてはやむを得ない苦渋の決断でもあった。

平塚八兵衛刑事は「警察の至宝」「昭和の名刑事」と呼ばれる敏腕刑事だったので、警視庁は威信をかけて 吉展ちゃん事件の捜査を平塚に任せることにしたのだと思う。

平塚八兵衛とはどんな人物だったのか?

平塚八兵衛は警視庁在籍の刑事だった。

はじめは交番勤務の警察官だったが、検挙率が警視庁トップとなり、試験を受けずに捜査一課へ異動となった伝説の敏腕刑事である。

平塚八兵衛は検挙率の高さから「捜査の神様」「落としの八兵衛」という異名を持ち、戦後の大事件の捜査で常に第一線に立ち続けており、警視総監賞にいたっては94回も受賞している。

そんな平塚八兵衛の名前を世に知らしめたのがこの「吉展ちゃん誘拐殺害事件」である。

吉展ちゃん事件は国民的関心も高く、迷宮入り寸前までいった戦後最大の誘拐事件である(小原保が自白するまでは吉展ちゃんの生死は不明で、殺人事件扱いではなかった) 

平塚八兵衛は粘り強い取り調べで犯人のアリバイを崩す手法が有名である。

平塚は数々の難事件を解決した警察のエキスパートとして名高いが、「帝銀事件」のように犯人を拷問で自供させて検挙した事件も中にはあった。

平塚八兵衛は1913年生まれ

この時代は人権侵害スレスレの捜査がまかり通った時代でもあったので、いくつかの冤罪を生んだことも事実ではあるが、平塚八兵衛は正義感が強く、曲がったことが大嫌いで、情に熱い男だったことは確かである。
 
 
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平塚八兵衛による小原保(当時32歳)のアリバイ崩し

吉展ちゃん事件の容疑者・小原保は犯行当時、郷里の福島に4月3日まで帰っていたと主張しており、その目撃証人もいたので、アリバイは完ぺきだと思われていた。

ところが平塚八兵衛はそのアリバイを崩すべく福島へ飛び、小原保のアリバイを洗い直している。

小原保は福島の実家の土蔵の鍵を壊して、シミモチを食べたと供述していたが、実はこの年は米が不作で、シミモチを作っていなかったことが判明。

また4月2日に小原保を見たという目撃証人に会って詳しく調べてみると、その記憶は誤りだったことも判明した。

目撃証人が小原保を見たのは4月2日ではなくて、3月28日だったのである。

1965年6月 落としの八兵衛、ついに小原保を落とす

平塚八兵衛は身代金要求テープの音声を聞いて「犯人は小原保に間違いない!」との確信を持っていたので、小原を落とす準備を着々と進めていた。

そして小原保への3度目の取り調べをするため、6月23日、小原保を収監中だった前橋刑務所から巣鴨拘置所に移した。

小原保は一貫して犯行を否認していたが、平塚八兵衛は小原に次々と崩したアリバイの数々を突きつけていくと、小原保は嘘のアリバイを自ら修正し始めた。

小原保
山手線から日暮里の大火(4月2日発生)を見た・・・

これを落としの八兵衛が聞き逃すはずがない。

平塚八兵衛
福島にいたヤツに、どうして日暮里の火事が見えるんだ!

君が言うアリバイも全部崩れちゃってんだ。そして今度は、声の声紋が一致してる。

それからあの事件当夜、君が金を稼いで行って、現実にキミ(愛人)に20万、ヤスジ(弟)に30万見せてる。

君の本当の性根は「あれは吉展事件に関係がある金だ。でも自分は今、心の整理ができないから(供述を)月曜日まで待ってくれ」と言ってるんだ。

それほどまでに君が悪党になりきっているとは思わなかったよ、僕は。

それからほどなくして小原保は、吉展ちゃん事件の犯行を自供したのである・・・号泣しながら。

小原保
関係があります。
平塚八兵衛
何に関係があるんだ?
小原保
あの金は、吉展ちゃんのお母さんから取った金です

小原保は犯行を全面自供し、吉展ちゃんの遺体は小原の供述通りの場所から発見された。

一貫して素直に取り調べた小原保は、以降、供述を翻すこともなかった。

平塚八兵衛
小原保はゲロするまでは本当にしぶとかった。

三白眼の目をジーッとさせてのらりくらり、苦しくなると猿のマネをしたり、飯にしようって言いだしたり。

後で聞いたことだが、なんとしてもしゃべるまいと頑張っていたのは、犯人だとわかった後、家の者が村でどんな目に遭うか、それを思うと絶対に隠し通さねばいかんと思ったというんだ。

実際、あとで村八分の目にあうんだけんどね。

しかし、いったん落ちた(自供した)あとはじつに潔かったね。

罪を少しでも軽くしようというところは微塵もなかったね。

ようやくやっとのことで「(自分が持っていた)あの金は、吉展ちゃんのお母さんに関係のある金です」と吐くところまでたどり着いた。

そうしたら、あくる日は自分の方から「何からお話したらいいでしょうか」と切り出した。

「まず仏さん(吉展ちゃん)を出せ」と言ったんだが、その後の調べではダーッと一気に全部話した。

裏取りの連中が当たってみると、きちんと自供通り。

あれくらいきれいに片付くことは滅多にないよ。

裁判になっても何一つねじまげようとしなかったな。

あんな家(=極貧の家庭)に生まれていなかったら、ひとかどの人物になっている奴だったよ

 
 
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「死体は語る」上野正彦氏(元東京都監察医)が吉展ちゃんを検死していた!

小原保が供述した通り、お寺の墓石をずらしてみたところ、中から子供が変わり果てた姿で発見された。

死後2年が経過した子どもの遺体は白骨化しており、両親が確認してもわからない状態だったが、その子は手編みの毛糸の靴下をはいていた。

そしてそれを吉展ちゃんの母親は「自分が編んだものに間違いありません」と言った。

でもそれだけでは、その白骨死体が吉展ちゃんだと断定できず・・・当時はまだDNA鑑定がなかったので、証明はできなかったのだ。

元東京都監察医の上野正彦さんが吉展ちゃんの遺体の検死をした時に口元からネズミモチという植物が3本生えているのを見て、この遺体が確かに2年間埋められていることを確認したという。

ネズミモチは種が発芽するまでに、2年の年月を要する・・・つまりその遺体は2年間そこで眠り続けていたという証である。

小原保が吉展ちゃんを殺害して墓地に隠した時に、偶然、ネズミモチの種が口の中に入り、それが2年経って芽を出したのだ。

そこからこの遺体を吉展ちゃん、殺害犯が小原保であると確定されたのである。

こうしてようやく吉展ちゃんは両親のもとに帰宅し、この事件は2年3か月ぶりに幕を閉じた。

4月3日に小原保は身代金要求の電話で「子供は返すから現金を用意しろ」と言っていたにもかかわらず、吉展ちゃんは誘拐された当日(1963年3月31日)に殺されていたことが判明した。

あの夜、吉展ちゃんに小原の足が不自由なことを悟られたことと、吉展ちゃんが泣き出したことで、小原保は焦った。

泣き出した子どもを中年男が連れていたら、目立って周囲に気づかれてしまうだろう。

そこでちょうど目の前にあったお寺の裏庭まで行き、そこで吉展ちゃんを絞殺したという。

そして殺害した後、墓石をずらして、吉展ちゃんを中へ押し隠したのだった。

小原保元死刑囚の裁判と心の中

小原保から小松不二雄弁護士宛の手紙
1965年(昭和40年)12月17日

其の後の心境ですが、いちばん気にしていた本人訊問も終わり、気持ちもすっかり落ち着いて どのような判決を受けようとも 自分の犯した罪の償いのためには悦んで受けるだけの心の準備ができ、毎日心静かに法華経に明け 法華経に暮れ 被害者の冥福を、今後絶対にこのような事件が起きないようにと祈り 修養に励んでおります。

人間どのような者でも十界と言って地獄界から仏界まであり、その中の仏界が自分に備わっていることも知らず、また 他人の仏心も知らずにいたわけです。

今になって初めて信心によって仏心を知ることができ、毎日感謝とよろこびの生活です。

今度の裁判を受けるにしても唯最高の刑を受ければよいというだけなら償いにはならないと思うのです。

心からお詫びをして真心と命をもって償いしようという心が大切だと考えて、一日も早く判決を受ける日を心静かに待っております。

以上が私の現在の心境です。何卒よろしくお願い致します。

今年も残り少なくなって参りましたが、ぜひよいお年をお迎えくださるよう、さようなら

小松先生   小原保

年が明けて3月17日にいよいよ判決の言い渡しがあり、大方の予想通りそれは「死刑」だった。

弁護側はすぐに控訴。

弁護側
小原保は新聞の報道で被害者が吉展ちゃんと知ったのであって、それで脅迫電話を思いついたくらいで、断じて計画性はない

ところが小原保は初め 控訴を納得しなかったという。

小原保
その後、兄も忙しいとみえて面会に来ませんが、もし先生の方のご都合が悪いようでしたら、控訴を取り下げてやろうかと考えております。

判決後はすっかり心の整理もできましたので、毎日を安らかに送っております。

どうか先生もお体大切にご活躍ください。

まずは取り急ぎお知らせとお願いまで

第二審の公判は3回のみで、翌年10月、最高裁も上告を棄却して、小原保の死刑は確定した。

元死刑囚・小原保から平塚八兵衛への最期の伝言

そして1967年10月13日、最高裁の上告で小原保の死刑が確定。

1971年12月23日、宮城刑務所にて小原保の死刑が執行されたのだった。享年38歳。

死刑執行の間際、小原保は平塚八兵衛宛てに伝言を残していた。

小原保
平塚さんによろしく。

今度生まれてくるときは、真人間に生まれますからって平塚さんに言ってください。

その後、平塚八兵衛が小原保の墓参りに行った時に小原の墓を見て愕然としたというエピソードが残っている。

小原保は先祖代々の墓に入れてもらえず、その墓は小さな盛り土がされただけの 墓石も卒塔婆もないものだったのだ。

花を手向けた平塚八兵衛の胸は言いようのない痛みに締め付けられ、平塚はその盛り土にふれて泣き崩れたという。
 
 
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