よど号ハイジャック事件と連合赤軍

よど号ハイジャック事件

via:http://blog.goo.ne.jp/ginchan1970

日本最初のハイジャック事件である「よど号事件」は赤軍派が起こした数々の事件の先駆けとなるものだった。

北朝鮮に亡命したよど号犯メンバーは 後の日本人拉致事件にもつながっていった。

新左翼の暴力革命の時代

1960~70年代初頭にかけて、団塊の世代の大学生らが左翼運動の熱にとりつかれて数々のテロ事件を起こした。

革命に暴力をいとわない新左翼の学生たちが暴れまわった時代だった。

セクトや通う大学の垣根はなく、70年安保と闘うために全共闘が結成される一方で、全学連が20以上の集団に分裂した。

いちばん有名な大学闘争が1968年の東大安田講堂紛争である。

佐藤栄作政権は扮装の沈静化を図るため、1年以内に正常化できない大学を廃校にするという法案まで国会に提出した。

当時警視庁警備第一課長だった佐々淳行氏は過激派(新左翼)との攻防を「城攻め」と呼んでいた。

警視庁機動隊は都内37大学の学園紛争に184回出動し、暴力学生によって組まれたバリケード校舎の封鎖解除警備を75回実施していたそうだ。

つまり2日に1度はどこかのキャンパスに攻め込み、5日に一度は城攻めを行っていた計算になる。
 

赤軍派の誕生

 
塩見孝也(しおみたかや)が共産同戦旗派から共産主義者同盟(ブント)赤軍派として独立したのは、学生運動真っ盛りの1969年8月だった。

京大文学部時代からブントの活動家として精力的だった塩見孝也は、大阪市立大学の田宮高麿(たみやたかまろ)を赤軍派の軍事委員長に迎え入れた。

結成当初の赤軍派は、二十四派の過激派の一派にすぎず、警察もあまり眼中に置かない小さな組織にすぎなかった。

ところが1970年代に入ると佐々率いる警備担当を仰天させる事件が立て続けに起こる。

田宮高麿らによるよど号ハイジャック事件をはじめ、連合赤軍によるあさま山荘事件や 山岳ベース事件。

さらに日本赤軍のテルアビブ空港の乱射事件やハーグのフランス大使館占拠など。

赤軍派は「よど号犯グループ」「連合赤軍」「日本赤軍」などに分派し、一般人にはよくわからないにしても「赤軍」と名がつくテロリスト集団に震撼した、そんな時代だった。

昨今だとイスラム国やタリバンと聞くだけで「=テロ」というイメージが浮かぶのと同じように、かつての日本赤軍は世界で最も大胆で過激派の一派と捉えられ、恐れられていたのである。

赤軍派は京浜安保共闘とともに連合赤軍を結成して1971~72年に「あさま山荘事件」「山岳ベース事件」を起こしたり、構成員の重松房子をリーダーとする日本赤軍が1977年に「ダッカ事件」を起こすなど、数々の凶悪事件を起こしていた。
 
 
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日航機「よど号」ハイジャック事件

1970年3月31日、羽田空港に9人のメンバーが集結した。

これが赤軍事件の幕開けだった。

羽田発・福岡行きの日本航空351便・ボーイング727機、通称「よど号」に乗り込んだ田宮高麿は手記にこう書いている。

「最後に確認しよう。われわれは“あしたのジョー”である」

田宮高麿はよど号をハイジャックするにあたり、自分たちを “何度ダウンしても立ち上がるジョー(=ボクサー)”にたとえて「あしたのジョー」と表現した。

よど号犯たちは午前7時33分、富士山上空で7人の乗員と122人の乗客を人質に取り、北朝鮮に亡命するため 機長に平壌(ピョンヤン)へ向かうように指示した。

彼らがハイジャックを企てたのは 当時の赤軍派が組織的に追い詰められていた背景があったからだ。

赤軍派は武力闘争路線を打ち出したものの、1969年秋に大菩薩峠で軍事訓練を行ったときに53人のメンバーが凶器準備集合罪などで逮捕されていた。

そんな組織力が低下した中で塩見孝也・赤軍派議長が中心となり、海外共産圏内で軍事訓練を受ける計画を立てていたが、その矢先に塩見は警察庁公安部に逮捕されてしまう。

その代わりにリーダーとなったのが田宮高麿・赤軍派軍事委員長だった。

小西隆裕(2010年3月のインタビュー)
赤軍派は当時、学生運動の中でも別格だったが、機動隊との闘いでは負け続けた。
 
大菩薩峠でさらに多くの仲間をパクられ、いよいよ海外に革命根拠地を築き、そこで軍事訓練をして巻き返そうという発想に傾いていった。
 
ハイジャックは窮余の策だったんだ。
 
事に際し田宮が「われわれはあしたのジョーだ」と言ったのは、何度倒されても立ち上がると言う意味だった。

逮捕された塩見孝也の手帳にはハイジャックを意味する「H・J」の文字があったのだが、当局はその意味を解読できないまま、ハイジャック決行当日を迎えていたのだった。

田宮高麿ら犯行メンバーは乗っ取ったよど号を北朝鮮まで飛ばせるつもりだったが、それには燃料が足りないというので、やむなく福岡空港に降りて給油することになった。

さらに機長は国交のない北朝鮮に向かう飛行ルートを知らないという。

それで福岡空港で地図を差し入れてもらうことになったのだが、それは中学生用学習地図のコピーという有様だった。

実はよど号犯メンバーのこのハイジャックは、北朝鮮政府への根回しひとつしていないという、行き当たりばったりの犯行だった。

小西隆裕
当時、ほとんどのメンバーが飛行機にも乗ったことがなく、国鉄に乗るような感覚で時間ぎりぎりに空港に行ったために3人のメンバーが遅刻して、ハイジャックを一度失敗したことがあった。

47年前は治安当局の対応もいい加減なもので、金属探知機はおろか、搭乗者のボディチェックすらない時代。

だから9人のよど号犯メンバーは日本刀や鉄パイプ爆弾を着ないに持ち込んで やすやすと日航機を乗っ取ることができた。
 
 
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日韓米合作の猿芝居

福岡から北朝鮮へと向かったよど号は、韓国側の巧妙な誘導で、ピョンヤン空港の南98キロに位置する韓国の金浦空港へ着陸させられた。

羽田を発ってから実に7時間半がすぎた午後3時過ぎである。

韓国当局はここがピョンヤンであるかのように偽装して赤軍派を機外に出させようとしたのだが、偽装が途中で見破られてしまう。

タラップが機体に横付けされた瞬間、田宮高麿は叫んだ。

田宮高麿
ここはピョンヤンじゃない!だまそうとしている!

コックピットにいたサブリーダーの小西隆裕が外を見ると、空港にはノースウェスト航空のNWマークをつけた米国機がとまっていたのである。

タラップに横付けされたバスの運転手に田宮高麿が「ここはソウルだな?」と英語で訊ねると 答えは「イエス」だった。

日韓米合作でひと芝居を打つつもりだったが、あまりにもお粗末な顛末である。

そんなことから、よど号の人質たちは金浦空港で3日間足止めをされてしまった。

長いこう着状態の末、日本側交渉人の一人だった山村新治郎・運輸政務次官がこう提案した。

山村新治郎
自分が乗客の身代わりとして機に乗り込む。

犯人グループはこれを了承し、事件勃発から三日後に乗客全員の解放が実現した。

そしてよど号は再び、ピョンヤンへ向けて旅立ち、9人のメンバーは北朝鮮亡命に成功。

そして人質だった山村や石田機長を日本に帰国させた。
 
 
ところが、行き先として選んだ北朝鮮も、そこに深い考えがあって選んだというわけではなかったらしい。

小西隆裕
北朝鮮は経由地のはずだった。
 
だから現地で万景台に案内されたとき、我々は「ここはどこですか?」と訊ねたほど何も知らなかった。
 
知っていたのは国旗と金日成主席の顔だけ。
 
だから感想を聞かれても何も応えられず、相手は「命がけで北朝鮮に来たのに何だ?」って顔をしてた。

彼らは北朝鮮には一時的に身を寄せるつもりだったのだが、結果としてその後40年以上もとどまらざるを得なくなった。

北朝鮮から第三国への出国がかなわないことを知ったのはいつごろなのか?

小西隆裕
それは3年目くらいかな。
 
我々が住んでいる家の庭に「果物を何か植えましょうか」と聞かれたんだ。
 
我々はそんなに長くいるつもりではなかったから「冗談じゃない」と断ったのを覚えているよ。

彼らは結局、軍事訓練を受けるというもうひとつの目的も果たすことはできなかったという。

小西隆裕
北朝鮮側に軍事訓練をしてほしいと申し出ても「考えておきましょう」といなされるだけで、実現しそうにないことはわかった。

だから自分たちだけでやろうと、毎日長距離走を競いながらやっていた。

 
 
北朝鮮での生活を始めたよど号メンバーは 実際には金日成(キムイルソン)の掌の上で踊る以外になすすべはなかった。

北朝鮮の待遇は悪くなく、朝鮮労働党はよど号犯メンバーに生活に必要なものを全て与え、専属の料理人や接待係までつけた。

北朝鮮では金日成主席がマルクス・レーニン主義を発展させた「主体思想」があがめられていたので、メンバーたちはも主体思想に学び、従うことを義務付けられた。

よど号犯メンバー9人のうち、吉田金太郎だけが未だに消息が不明だが、他の8人はすっかり北朝鮮に取り込まれる形になっていた。

田宮高麿ら9人の当初の目的は北朝鮮で軍事訓練を受けて、再び帰国して本格的な武装蜂起をすることにあったのだが、その思惑は完全にはずれていた。

北朝鮮は生活面では彼らを厚遇しながらも、チュチェ(主体)思想教育で徹底的に彼らを洗脳し、実際は北朝鮮にとって有用な人材になるように仕向けているにすぎなかった。

よど号犯たちは金日成とも会談し、北朝鮮の主席は田宮高麿の方に手を乗せてこう言った。

キムイルソン
君たちは“金の卵”だ。

そしてよど号犯らはまんまと北朝鮮に取り込まれ、キムイルソンの教示によって日本人妻をめとり、日本人拉致工作にまで担うことになったのである。

1987年5月によど号犯のメンバーの一人・柴田康宏が日本で逮捕されるまでは、よど号犯たちの動向は不明だった。

その後 柴田の妻も逮捕されている。

柴田の妻・八尾恵が北朝鮮の大物工作員と接触していたことを公安は掴んでいたからだ。

2002年に八尾恵は、北京で逮捕されたよど号メンバー・赤木志郎の妻・恵美子の裁判で検察側の証人として出廷し、ロンドンに留学していた有本恵子さんを北へ拉致したことを証言して、世間を驚かせている。

また1996年によど号犯の田中義三がタイで偽ドル使用で逮捕されている。

これらのことから、よど号メンバーらが海外でさまざまな工作活動、特に日本人拉致工作に積極的に関与していたことが見え隠れする。

よど号犯の妻たちが中心となり欧州に潜入して、日本人拉致の片棒を担いでいたようだ。

北朝鮮にはよど号犯メンバー4人前後とその家族十数名が残っていて、日本政府との無罪の合意ができた上での無罪合意帰国を主張しているというが、もし彼らが多数の拉致事件に関与していることが事実であったとしたら、無罪なんてとんでもないことではないかと思うけれど。
 
 

よど号メンバーの生活に変化が訪れたのは1995年、リーダーとしてメンバーをたばねていた田宮高麿がこの世を去ったことがきっかけだったという。

倒されても倒されても立ち上がる「あしたのジョー」に自分たちを重ねて生きてきたメンバーたちにも、さすがに日本への郷愁がにじんだ。

小西隆裕
実は我々は「あしたのジョー」の最終回を知らなかったんだ…。
 
 
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連合赤軍「あさま山荘事件」死の攻防

よど号犯メンバーの動向が判明したのは、日本人記者団がよど号メンバーらの消息を金日成に尋ねたからである。

それは もしよど号犯メンバーらが存命であるとすれば、1972年2月に起こった「あさま山荘事件」を 彼らがどう捉えているかを知りたいと思ったのだ。

1971年末から1972年はじめにかけて、爆弾闘争を仕掛けた赤軍派と 銃器攻撃が得意な京浜安保共闘の 二大極左グループが合体して 連合赤軍が結成された。

赤軍派の森恒夫と 京浜安保の永田洋子が手を組んだのだ。

連合赤軍の4人が1972年2月19日に軽井沢で逮捕されたことが あさま山荘事件の発端となっている。

警察が群馬県内の山岳アジトを見つけ出し、大掛かりな山狩りをして軽井沢別荘地域で坂口弘ら5人の連合赤軍メンバーを発見し、機動隊との銃撃戦の末に坂口らが逃げ込んだ先が 河合楽器の保養所だったあさま山荘である。

連合赤軍の5人が浅間山荘に押し入り 管理人夫人の牟田泰子さんを人質に立てこもったことで「警察史上最悪」といわれる過激派との死闘が繰り広げられた。

人質を取ってあさま山荘に立てこもった坂口弘ら犯人の要求には、逮捕された森恒夫と永田洋子の釈放があった。

森恒夫と永田洋子は活動資金を調達するために一旦下山していて、2月17日(あさま山荘事件の2日前)に再び山岳アジトに戻ろうとしていたところを逮捕されて、身柄を拘束されていた。
 
 
連合赤軍浅間山荘事件
 
あさま山荘事件では、クレーン車で吊った巨大な鉄球が山荘の壁をぶち破り、大量の放水とガス弾も加えて 犯人たちを追い詰めていくシーンがテレビに何度も流れていたから、あさま山荘事件の内容を知らない人でも、この事件のことは覚えているという人は多いと思う。

捜査幹部
鉄球は一種のこけおどしで 目くらましのようなもので、たいした効果は期待していなかった。
 
それよりも大事だったのは、いかにして山荘近くで接近して犯人の動きを探るか。 
 
その点が最も危険を伴う捜査だった。

確かに犯人に接近していく過程で、三人が撃たれて亡くなっている。

あさま山荘事件では放水車の陣頭指揮を取っていた警視庁の特科車両隊の一人と、偵察部隊の一人が銃撃されて絶命し、機動隊員が一人 散弾銃で撃たれて左目を失明している。

また山荘近くに立ち入って 独自で犯人との接触を試みた民間人が頭を撃たれ、1週間ほどで亡くなっている。

戦力の違いだけを見たら過激派の、それも5人ほどの戦闘力などは警察の比ではない。

ところが現場の地形があさま山荘犯5人を味方し、あさま山荘は難攻不落の要塞と化した。

雪と氷に閉ざされた「あさま山荘」の北側急斜面の下から見上げたときの第一印象は「こりゃあ昭和の“千早城”だな」ということだった。

雪に覆われた三十度くらいの勾配の谷側斜面は雑木もほとんどなく、約2キロぐらい広々と視界が開けている。

装甲警備車はおろか、完全装備の機動隊員が大楯をかざして登ってゆくことさえ極めて難しい。

登っても登っても辷り(すべり)落ちてきてしまうだろう。

その斜面の上に空高く三階建ての「あさま山荘」がまさに“千早城”のようにそそりたっている。

下から見上げると四層の城砦だ。

「あさま山荘」はまさに天然の要害で、攻めるに難く、守るに易い地勢になっている。

(中略) 南側から攻めるのにも建物にじかに警備車なりクレーン車なりをつけることができないから、肉弾戦の白兵戦になってしまう。

なんでこんな天然の要害を、偶然とはいえ、選んで立て篭もったのだろう。

via:連合赤軍「あさま山荘」事件

要塞のようにそびえ立っていた山荘を陣地とした敵陣を攻め落とすことは難航を極めた。

しかも機動隊は上部から「人質の安全確保」「銃器の使用制限」「立てこもり犯の生け捕り」を厳命されていたという。

これら全てを満たして事件を完全解決せよというのは かなりの無理難題である。

警察幹部が立てこもり犯の生け捕りにこだわったのは、犯人を射殺すれば活動家として神格化され、新たな過激派を生む土壌になりかねないという判断からだった。

あさま山荘の攻防は2月19日から2月28日までの10日間、延々と続いた。

そして最終日には、これ以上の引き延ばしは人質の生命も危ぶまれるとの判断から機動隊が突入し、メンバー5人全員の生け捕りにこぎ着けたのだった。
 
 

連合赤軍・山岳ベース事件

事件の終息にほっとするのもつかの間、連合赤軍の一連の捜査で逮捕したメンバーの供述から、驚くべき事実が浮かび上がった。

それが「山岳ベース事件」と呼ばれる、連合赤軍メンバーの凄惨極まりないリンチ殺人である。

山梨県の新倉山や群馬県の迦葉山、榛名山などのアジトを転々としながら武装訓練をしてきた連合赤軍のリーダーの森恒夫と永田洋子は 総括と称したメンバー批判を始め、それが長時間の正座や殴打を伴った虐待・拷問から 果てはリンチ殺人へとエスカレートしていったのだ。

連合赤軍メンバーの供述をもとに群馬県内の3ヶ所の山岳アジトの凍った土を掘り返すと、12体の遺体が出てきた。

遺体は頬がはれ上がったり肋骨が折れたりした無残なもので、男女の区別がつかないほど陰惨なものだった。

山岳ベース事件の首謀者は森恒夫と永田洋子だが、永田は総括のターゲットに美人の女性メンバーばかりを選んだといわれている。

このショッキングすぎる事件の発覚から、日本の社会は新左翼の過激派を完全に打ち棄てるようになった。
 
 
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北朝鮮亡命者たちのその後

1977年以降、よど号の犯人たちは日本人拉致という最悪の北の作戦に加担するようになる。

よど号犯メンバーを懐柔するために彼らを厚遇した朝鮮労働党は 次に「結婚作戦」に着手した。

日本で活動する「朝鮮文化研究会」や「主体思想研究会」の女性メンバーをよど号犯の花嫁として選抜し、北朝鮮に呼び寄せ、結婚させた。

リーダーの田宮高麿(1995年11月30日・52歳没)は森順子(よりこ)と、若林盛亮(もりあき)は黒田佐喜子と結婚している。

よど号ハイジャック事件

via:http://www.hazardlab.jp/

そしてこれらのよど号犯の妻たちがヨーロッパに行って、日本人留学生や旅行者をかどわかし、北朝鮮に連れ出す工作を担っていた。

その被害者の一人と目されているのが、有本恵子さん(神戸市出身)である。

1983年留学先のロンドンから姿を消した有本恵子さんが実は北朝鮮にいると判明したのは1988年9月。

石岡亨からの一通の手紙が届いたことでそれが判明した。

私と松木薫さんは元気です。 ※松木薫…京都外大大学院生

途中で合流した有本恵子君(神戸市出身)ともども、三人で助け合って平壌市で暮らしております。

事情あって欧州にいた私たちは、こうして北朝鮮にて長期滞在するようになりました。

1980年にスペイン・マドリードで行方不明になった石岡亨は、田宮高麿の妻・森順子や 若林盛亮の妻・黒田佐喜子とバルセロナで出会い、松木薫といっしょに北朝鮮に連れさられたと伝えられている。

そして有本恵子さんと一緒に北朝鮮で幽閉されていた。

それを日本の家族に伝えるために手紙を書き、小さく折りたたんで常に携帯し、北朝鮮にやってくる外国人に手渡すチャンスをうかがっていたようだ。

それがどういうわけか行方不明になって8年後に北海道の石岡亨の実家に届いたというわけである。

その後の調査によって森順子や黒田佐喜子と石岡亨がいっしょに写っているスナップ写真や拉致の痕跡が明るみに出た。

金正日(キムジョンイル)に小泉純一郎氏が日本人の拉致を認めさせた2002年より10年以上も前に、北朝鮮による日本人拉致の動かぬ証拠が存在していたのだ。
 
 

赤軍派は よど号犯グループ、連合赤軍、日本赤軍と枝分かれしていったが、そのどれもが大きな罪を犯した挙句に自滅していった。

その結果、国内の左翼運動は急速に衰退し、一部の過激派は海外に活動の場を求めて去っていった。
 
 
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