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瀬戸内寂聴と徳島ラジオ商事件!魂を震わせた胸に残る冨士茂子の言葉

瀬戸内寂聴さんが4刑廃止論者になった理由

徳島ラジオ商事件

2016年、瀬戸内寂聴さんが4刑廃止を訴える中で「56ころしたがるばかども」と発言し、物議を醸したことがあった。馬鹿呼ばわりが炎上の原因。

人間が人間を56すことは一番野蛮なこと。「56さない」ってことを大きな声で唱えてください。そして56したがる馬鹿どもと戦ってください。

寂聴さんが4刑廃止論者になったのは、当時から遡ること60年以上前に起こった徳島ラジオ商事件がきっかけ。まだ瀬戸内晴美と名乗っていた頃の話だ。

寂聴さんは1953年に起こった徳島ラジオ商事件で犯人とされた冨士茂子(ふじしげこ)さんの裁判記事を雑誌に発表し、後に冨士茂子さんとの共著(書簡・手記を収録)で「恐怖の裁判」を上梓した。

さらに1968年の4人連続射〇事件の永山則夫元4刑囚(1997年8月1日執行)や 連合赤軍事件の永田洋子元4刑囚(2011年2月6日獄4) とも交流を深めたことから、4刑廃止論を訴え続けてきた。

「殺したがるばかもの」は 今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった。発言の流れからしても「バカども」は当然、被害者のことではないと聞けるはずである。でなければ、言葉に敏感な弁護士たちが、そのまま流すはずはないだろう。

これまでも私は文学者としても出家者としても被害者のために論じ、行動してきている。過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである。そんな誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいいのである。耄碌のせいだなどと私は逃げない。お心を傷つけた方々には、心底お詫びします。
引用元:寂聴残された日々

徳島ラジオ商事件は徳島地検の暴走による史上最悪の冤罪事件

徳島ラジオ商事件

1953年(昭和28年)11月5日早朝、徳島市内のラジオ商(=電機店)に何者かが押し入り、店主の三枝亀三郎さん(当時50歳)を刺さつ

一緒に寝ていた内縁の妻・冨士茂子さん(当時43歳)は犯人の凶器で切りつけられて負傷したが、命に別状はなかった。

冨士茂子さんはあわててに室内の電灯をつけようとしたがなぜかつかない。這うようにして電話までたどり着いて警察に通報しようとしたが、なぜか電話も通じない。しばらくして騒ぎを聞きつけた近隣住民が警察に通報した。

電気と電話が通じなかったのは、犯人が凶行に及ぶ前に屋根によじ登り、電話線と電線を切断していたため。

三枝さんは全身を9ヶ所をさされ、出血多量で即4状態だったが、金品は奪われた形跡はなかった。

犯行現場の四畳半には犯人のものと思しき懐中電灯が落ちており、布団には土足の靴跡が2つ残されていた。

暴力団関係者を検挙するも全員不起訴

徳島ラジオ商事件

1950年代当時のラジオは売れ筋の花形商品。ガイシャの三枝さんは1951年から始まったテレビの民間放送にいち早く目を付け、テレビ徳島の設立を視野に入れるなど、やり手の実業家だった。

やり手だけに手法に強引なやり方も目立ち、人の恨みを買うことも多かったという。

犯行現場を見れば外部犯による強盗〇人事件なのは明白だったため、当初は警察もその線で捜査を進め、その後徳島市内の暴力団関係者2名を別件逮捕。さらに別の暴力団関係者2名を逮捕し、〇人容疑で厳しく追及した。

容疑者の1人があいまいに犯行を自供したものの、犯人に結びつく物証が集まらないことで、全員が不起訴処分。事件発生から1年が経過しても、いっこうに犯人が捕まらない。

それに業を煮やしたマスコミや市民の非難が警察に集中するようになったため、徳島地検が捜査に乗り出してきて、この事件はいつしか徳島地検が捜査の主導権を握ることになっていた。

そしてこのことが、徳島ラジオ商事件の様相を一変させてしまったのだ。

外部犯行説から内部犯行説へ方向転換

徳島ラジオ商事件

捜査の主導権を握った徳島地検は、それまでの捜査方針を180度転換し、外部犯行説から内部犯行説に切り替えた。

方向転換の理由は不明だが、成果を挙げられない警察の捜査方針への当て付けや蔑視があったのかもしれない。

内部犯行説で捜査を始めた徳島地検は 最初から内縁の妻である冨士茂子さんが犯人のシナリオを描いていた。

そして手始めに、三枝さんの店に住み込みで働いていた2人の少年(未成年者)を逮捕した。

1人は有線電気通信法違反。もう1人は銃刀法違反。あからさまな別件逮捕で、2人を長期拘留し、連日の執拗な取調べを続けて、冨士茂子さんが内縁の夫を〇害した「証言」を無理やり引き出した。

当時の徳島市内では、女性犯による傷害・〇人事件が3件連続していたため、この件も女性犯であると決めつけたのかもしれない。

そんな経緯から、冨士茂子さんは〇人の罪で逮捕されることになった。

徳島ラジオ商事件の取り調べは史上最悪のこじつけと強迫

徳島ラジオ商事件

逮捕後、冨士茂子さんへの検察の取調べは連日続けられたが、中身は脅迫じみた苛烈なものだったという。

自供が引き出せないとみるや、少年店員2人と冨士茂子さんを面会させて

奥さんが自白してくれなければ、自分たちが刑務所に送られるんです

そんな泣き落としまでさせていたそうだ。

徳島地検は冨士茂子さんに屁理屈を並べ立てて、こんな風に責めていたという。

お前が56さないきゃ誰が56したんだ?お前がやったに決まっているんだ!

徳島ラジオ商事件の史上最悪の裁判

徳島ラジオ商事件

精神的にまいってしまった冨士茂子さんは、やってもいないのに「やりました」と自白してしまう。

裁判が始まってから犯行を否認したものの、1956年、徳島地方裁判所(一審)は冨士茂子被告に懲役13年の有罪判決を言い渡した。二審の高松高等裁判所は控訴を棄却。

冨士茂子さんは諦めずに上告しようと考えていたが、長引く裁判で費用に困り、上告を取り下げざるを得なくなった。そこで懲役13年が確定してしまう。

当時の裁判は、布団についていた土足の靴跡などの物証よりも、犯人の自白に重きを置いていた風潮があったのだ。

だからこそ検察は是が非でも容疑者を自白に追い込むやり方を貫いたのだろう。

しかし、有罪が確定した2年後、再び事態は急転。

ラジオ商事件の真犯人を名乗る男が自首してきたのだ。

徳島ラジオ商事件の犯人が自首したときに検察は…

徳島ラジオ商事件

静岡県沼津署に「ラジオ商事件の犯人」を名乗る男が出頭した。

この男は事件に関して極めて詳細な事実を語ったため、供述はかなり信憑性が高いものだったのだ。

それにも関わらず、証拠不十分で不起訴処分とされている。一体これはどういうことか?

今さら真犯人が現れては、有罪を確定させた検察のメンツが丸つぶれになるじゃないか!

検察側のそんな思惑が働いたのだろう。

徳島ラジオ商事件

無理やり不起訴処分にしたものの、この頃、徳島地検による強行のほころびが、次第にあらわになりつつあった。

冨士茂子さんの親族の懸命な努力により、店員の2人の少年が

検察に脅迫されて嘘の証言をした!

…と告白したのだ。

これを知った検察は、2人の少年に執拗な圧力をかけて、彼らの告白を取り消させようとしていたらしい。

これが法の番人のすることだろうか!?

一方、模範囚として服役していた冨士茂子さんは、獄中から何度も再審請求を出していたのだが(第1~3次再審請求) そのたびに地裁に却下され続けていた。

1966年11月29日に冨士茂子さんは仮出所し、その2年後に刑期を満了したのだが、冨士茂子さんは諦めることなく再審請求申し立てを続けていた。

少年店員らが偽証を行っていたことが世間に知れ渡ったため、次第に世論の風向きが変わり始めており、市民グループや女性議員の市川房枝さん、作家の瀬戸内晴美さんらが、冨士茂子さんの支援に立ち上がったのだった。

徳島ラジオ商事件を担当した徳島地検の検事と事務官は誰!?

徳島ラジオ商事件

存命の人はいないので実名を挙げても問題はないのだが、ここでは一応伏せておくことにする。

茂子さんの人権を踏みにじり、家族や証人たちの人生にも多大な被害を 与えた直接の責任者はいったい誰なのか。

供述調書や村上報告書などから判断すると、直接かかわったのは徳島地検・●●●●検事正、●●●●次席検事、●●●●・●●●●両検事、●●●●検察事務官らであり、さらに西野証人らの”偽証告白”をひっくりかえさせるために活躍した昭和34年5月当時の徳島地検・●●●●検事正、●●●●検事、高松高検の●●●●検事らの名前も加えられるべきだろう。

そして、さらに見逃せないのは「犯罪」といってよいほどのでたらめきわまる判決を下した裁判官たちだ。再審開始決定と無罪判決を下した裁判官たちは、「茂子有罪」の判決を下した同僚裁判官たちの誤りをきびしく徹底的に批判し、ようやく裁判の威信を取り戻す役割を果たした。

茂子有罪の判決を下した裁判官たちは、この西野証言をどう評価していたのだろうか。

検察庁で西野少年がこの重要な供述をしたあと間もなくこの刺身庖丁の大捜索がはじまった。5日間にわたって両国橋の上流、下流それぞれ約20メートルの範囲にわたって、潜水夫や漁業用の用具を動員して川ざらいしたのだ。その結果、パチンコ玉数百個などたくさんの金物は出てきたけれども、庖丁はついに見つからなかった。

ところが、茂子有罪とした二審の裁判官は「刺身庖丁が投棄の場所に存在するとしても発見の能否は別個の問題で、右のごとく発見できなかったといって直ちに投棄の事実を否定し得ない」と片付けていた。これはシロウトがみてもおかしな論理だ。

つまり、川ざらいして庖丁が見つからなかったという事実は、庖丁投棄そのものを否定する判断材料にはなるけれども、反対に庖丁投棄を認める材料にはならない。それをあえて「投棄したことはまちがいない」という判断材料にするためには、なぜそう言えるかという、裏付けが必要だ。

ところが判決はそんなことにはお構いなく、強引に庖丁が出てこなかった事実を葬り去り、庖丁を投棄したという西野証言を生かしていたのである。

私はかつて問題の二審判決を言い渡した裁判官を自宅に訪ねたことがある。支局の記者ではなく、東京からわざわざ来た本社の記者ということが影響したのか、立派な邸宅の応接間へ上げてくれた。

その地方では有名な旧家で、兄弟が長く県知事をつとめるなど、地方のもっとも有力な階層の出身者である。人当たりがよく、愛想のよい応対ぶりは意外なほどだった。

だが意外だったのはそれだけでなく、判決の疑問点を問いただしていくと、「いやあ、あの事件ほどむつかしい、よくわからない事件はなかった。最後の最後まで判決に迷ったのをよく覚えていますよ」と、しきりに難事件だったことを強調する。

それならばなぜ、あのような判決を下したのか、私は話を聞いているうちに、どうやら確信のないまま なかばサイコロを振る感じで、検察側のほうへ振ったのではないか、そうしておけばまず安全だろうという判断放棄の状態で・・・そんな印象を抱いた。

さして困惑したようすもなく、かつて体験した事例のひとつを思い出として語っていく調子の話を聞きながら、この人にはきっと、山村の集落で育った西野・阿部少年らのおびえや不安に共感を寄せることがむつかしかったろうし、まして殺人犯にされて刑務所に閉じ込められている人間の苦悶など想像したこともないのだろうな、とその屈託のなさにとまどいさえ覚えたものだ。

引用元

徳島ラジオ商事件で無罪判決!32年後の真実

徳島ラジオ商事件

長い裁判闘争の末、1980年12月13日、徳島ラジオ商事件の再審請求が認められることになったが(第6次再審請求) この前年に冨士茂子さんは他界していた。

第5次再審請求中の1979年11月15日に腎臓がんのため逝去。享年69歳。

第6次再審請求を遺族が受け継いでいき、冨士茂子さんの死から6年後の1985年7月9日、徳島地方裁判所は無罪判決を出した。

それは事件発生から32年後のことであり、徳島ラジオ商事件は日本初の死後再審が行われた判例となった。

無罪判決を勝ち得た理由は、

有罪の決め手となった少年店員の証言は偽証の疑いが強かった
冨士茂子さんに三枝さんを〇害すべき動機がなかった
外部からの侵入者による犯行をうがかわせる証拠が多かった

徳島ラジオ商事件の再審請求は 冨士茂子さんの無罪を明かすと同時に、当時の捜査機関のずさんな捜査を糾弾することになった。

徳島地方裁判所は冨士茂子さんの娘に対して、逮捕から仮出所までの4493日間、 7200円/日  3,235万円の刑事補償を支払うことを決定。

しかし、徳島ラジオ商事件の真犯人は誰だったのか?沼津署に自首してきた男だったのか?真相は放置されたまま、闇の中である。

瀬戸内寂聴さんの胸に残る 魂を震わせた冨士茂子さんの言葉

徳島ラジオ商事件

冨士茂子さんが亡くなる10日前、病床で、お見舞いに訪れた瀬戸内寂聴さんに対して、こんな言葉を残している。

何もしていないのに冤罪を犯したり。人間はどんなに不確実なものか。なんて愚かなものか。
これは私が聞いたもっとも悲しい人生の女の言葉だった

後に瀬戸内寂聴さんは、遠い目をしながら、そう回想していた。

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