瀬戸内寂聴の魂震わせた冨士茂子の言葉と「徳島ラジオ商殺し」冤罪事件

徳島ラジオ商殺人事件
 

死刑廃止論者・瀬戸内寂聴の「殺したがるばかども」発言

2016年10月に瀬戸内寂聴さんが死刑廃止を訴える中で「殺したがるばかども」と発言したことが、当時物議を醸した。

死刑存続を主張する人を「ばか」呼ばわりしたと 世間から受け止められたからだ。

2016年10月6日に日弁連が福井市内で開いた「死刑廃止に関するシンポジウム」に瀬戸内寂聴さんがビデオメッセージを寄せた。

その中で瀬戸内さんは死刑制度の撤廃を改めて主張し、こんな発言をし、炎上している。

瀬戸内寂聴
人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。
『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。
そして、殺したがるばかどもと戦ってください。

瀬戸内寂聴さんが死刑廃止論者になったのは最近の話ではない。

それは50年以上も遡る「徳島ラジオ商殺し」がきっかけである。

瀬戸内寂聴さんは当時、作家の「瀬戸内晴美」だった。

瀬戸内晴美さんは1953年に起こった「徳島ラジオ商殺人事件」で犯人とされた冨士茂子(富士茂子)さんの裁判についての記事を雑誌に発表し、後に冨士茂子(ふじしげこ)さんとの共著(書簡・手記が収録されている)で「恐怖の裁判」を世に送り出している。
 

 
瀬戸内寂聴はその後に発生した4人連続射殺事件の永山則夫・元死刑囚(1997年8月1日死刑執行)や 連合赤軍事件の永田洋子・元死刑囚(2011年2月6日に獄死) とも交流を深め、死刑廃止論を訴え続けてきた。
 
 
2016年に炎上した瀬戸内寂聴のビデオメッセージについて日弁連側は、瀬戸内さんの発言は犯罪被害者ではなく「死刑制度を含む国家による殺人」に向けられたものだと釈明したうえで「配慮がなかった」と謝罪。

瀬戸内寂聴さん本人は朝日新聞の連載コラム「寂聴 残された日々」の2016年10月14日付で「94歳の作家で老尼の口にする言葉ではないと深く反省している」「お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」などと陳謝している。

瀬戸内寂聴
「殺したがるばかもの」は 今もなお死刑制度を続けている国家や、現政府に対してのものだった。
 
発言の流れからしても「バカども」は当然、被害者のことではないと聞けるはずである。
でなければ、言葉に敏感な弁護士たちが、そのまま流すはずはないだろう。
これまでも私は文学者としても出家者としても被害者のために論じ、行動してきている。
過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである。
 
そんな誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいいのである。
耄碌のせいだなどと私は逃げない。
お心を傷つけた方々には、心底お詫びします。
 
 
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徳島ラジオ商殺人事件~徳島地検の暴走による史上最悪の冤罪事件!

 
徳島ラジオ商殺人事件
 
1953年11月5日早朝、徳島市内のラジオ商(=電機店)に何者かが押し入り、店主の三枝亀三郎さん(当時50歳)を刺殺した。

一緒に寝ていた内縁の妻・冨士茂子(富士茂子)さん(当時43歳)は犯人の凶器で切りつけられて負傷したが命に別状はなかった。

冨士茂子さんの叫び声を聞いて犯人は逃走したので、あわててに室内の電灯をつけようとしたがなぜかつかない。

這うようにして電話までたどり着いて警察に通報しようとしたが、なぜか電話も通じなかったため、しばらくて騒ぎを聞きつけた近隣住民が警察に通報した。

電気と電話が通じなかったのは、犯人が凶行に及ぶ前に屋根によじ登り、電話線と電線を切断していたからだ。

三枝亀三郎さんは全身を9ヶ所刺され、出血多量で即死状態だったが、金品は奪われた形跡はなかった。

犯行現場の四畳半には 犯人のものと思われる懐中電灯が落ちており、冨士茂子さんの布団には土足の靴跡が2つ残されていた。
  
 

暴力団関係者を検挙するも全員不起訴

 

「ラジオ商」というと町の小さな電機屋さんを想像するかもしれないが、1950年代当時のラジオは売れ筋の花形商品だった。

殺害された三枝亀三郎さんは1951年から始まったテレビの民間放送にいち早く着目し「テレビ徳島」の設立を視野に入れるなどのかなりやり手の実業家だった。

やり手であり手法に強引なやり方も目立つがゆえに、三枝さんは人の恨みを買うことも多かったという。
 
 
犯行現場を見れば、常識的に考えてもこの事件が外部犯による強盗殺人事件であることは明白だったため、当初は警察もその線で捜査を進めていた。

そしてその後、徳島市内の暴力団関係者2名を別件逮捕、さらに別の暴力団関係者2名を逮捕し、ラジオ商殺しの容疑で厳しく追及した。

ところが、逮捕したうちの1人があいまいに犯行を自供したものの、犯人に結びつく物証が集まらないことで、全員が不起訴処分になってしまい、事件発生から1年が経過しても、いっこうに犯人が捕まらない。

次第に それに業を煮やしたマスコミや市民の非難が警察に集中するようになったため、徳島地検が捜査に乗り出してきて、いつしか徳島地検が捜査の主導権を握ることになっていた。

そしてこのことが、徳島ラジオ商殺人事件の様相を一変させてしまうのである。
 
 
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外部犯行説から内部犯行説へ

捜査の主導権を握った徳島地検は、それまでの捜査方針を180度転換し、外部犯行説から内部犯行説に切り替えた。

なぜ徳島地検が内部犯行説を考えたのかは不明だが、成果を挙げられなかった警察の捜査方針への当て付けや蔑視があったのかもしれない。

内部犯行説で捜査を始めた徳島地検は最初から内縁の妻・冨士茂子さんが夫殺しの犯人だというシナリオを描いた。

そしてまずはじめに、三枝さんの店に住み込みで働いていた2人の少年店員(未成年者)を検挙し、逮捕している。

1人は有線電気通信法違反、もう1人は銃刀法違反というあからさまな別件逮捕で、2人を長期拘留した。

少年2人に対する連日の執拗な取調べにより、冨士茂子さんが内縁の夫・三枝亀三郎さんを殺害したという「証言」を無理やり引き出したのである。

当時の徳島市内では、女性犯による傷害・殺人事件が3件連続していたため、この件も女性犯であると考えられたのかもしれない。

いずれにしてもこういう状況から、冨士茂子さんは殺人の罪で逮捕されることになったのである。
 
 

徳島ラジオ商殺し・史上最悪の取調べ

逮捕後、冨士茂子さんに対する検察の取調べは連日続けられたが、中身は脅迫じみた苛烈なものだったという。

どうしても口を割らないとなると、未成年の少年店員2人と冨士茂子さんを面会させて

少年ら
奥さんが自白してくれなければ、自分たちが刑務所に送られる。

・・・などと泣き落としをさせた。

また、徳島地検は冨士茂子さんを理屈にならない理屈を並べ立てて、こう攻めたという。

検察官
お前が殺さないのであれば、誰が殺したのか!?
それがわからないなら、お前がやったんだ!
 
 

徳島ラジオ商殺し・史上最悪の裁判

これらの取調べですっかりまいってしまった冨士茂子さんは、やってもいないのに「やりました」と自白してしまう。

その後、裁判が始まってから冨士茂子さんは犯行を否認した。

しかし1956年、徳島地方裁判所(一審)は冨士茂子被告に懲役13年の有罪判決を言い渡した。
 
 
一審判決言渡しの日、裁判所へ向かう冨士茂子さん

Fuji Shigeko.JPG
By 徳島新聞社 – 『徳島新聞』 1956年4月18日, パブリック・ドメイン, Link

 

二審の高松高等裁判所は控訴を棄却した。

冨士茂子さんは諦めずに上告しようと思っていたが、長引く裁判で費用に困り、上告を取り下げざるを得なくなってしまった。

これにより、冨士茂子被告の懲役13年が確定した。

裁判で布団についていた土足の靴跡などの物証よりも、当時は自白に重きを置いていた風潮があり、だからこそ検察も是が非でも容疑者を自白に追い込むやり方をしたのかもしれない。

しかし、冨士茂子さんの有罪が確定した2年後、再び事態は急展開した。

ラジオ商殺しの真犯人を名乗る男が自首してきたのである。
  
 
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犯人の自首

静岡県沼津署に「ラジオ商殺しの犯人」を名乗る男が出頭した。

この男は事件に関しての極めて詳細な事実を語ったため、供述はかなり信憑性が高いものだったという。

ところがこの男は証拠不十分で不起訴処分とされている。

おそらく今さら真犯人が現れては 別の犯人を起訴し、有罪を確定させた検察のメンツが丸つぶれになるという意向が働いたのだと思われる。

しかしこの頃、徳島地検の無理強いや強行のほころびが次第にあらわになりつつあった。

冨士茂子さんの親族の懸命な努力により、元ラジオ商店員の2人の少年が、検察に脅迫されて嘘の証言をしたことを告白したのだ。

このときも検察は2人に露骨な圧力をかけて、彼らの告白を取り消させようとしていた。

これが法の番人のすることだろうか!?あまりに汚すぎる。

模範囚として服役していた冨士茂子さんはというと 何度も再審請求を出していたのだが(第1~3次再審請求) そのたびに地裁に却下され続けていた。

そして1966年11月30日に仮出所し、1968年に刑期を満了してからも冨士茂子さんの再審請求申し立てを続けていた。

また、少年店員らが偽証を行っていたことが次第に知れ渡るようになり、世論の風向きが変わり始め、市民グループや、女性議員の市川房枝氏、作家の瀬戸内寂聴(瀬戸内晴美)さんらが冨士茂子さんの支援に立ち上がった。
 
 

徳島ラジオ商殺し事件を担当した徳島地検の検事と事務官は誰!?

茂子さんの人権を踏みにじり、家族や証人たちの人生にも多大な被害を 与えた直接の責任者はいったい誰なのか。

供述調書や村上報告書などから判断すると、直接かかわったのは徳島地検・田辺光夫検事正、湯川和夫次席検事、村上善美・藤掛義孝両検事、丹羽利幸検察事務官らで あり、さらに西野証人らの”偽証告白”をひっくりかえさせるために活躍した昭和34年5月当時の徳島地検・大越正蔵検事正、丸尾芳郎検事、高松高検の南舘陸奥夫検事らの名前も加えられるべきだろう。

そして、さらに見逃せないのは「犯罪」といってよいほどのでたらめきわまる判決を下した裁判官たちだ。

再審開始決定と無罪判決を下した裁判官たちは、「茂子有罪」の判決を下した同僚裁判官たちの誤りをきびしく徹底的に批判し、ようやく裁判の威信を取り戻す役割を果たした。
 
茂子有罪の判決を下した裁判官たちは、この西野証言をどう評価していたのだろうか。

検察庁で西野少年がこの重要な供述をしたあと間もなくこの刺身庖丁の大捜索がはじまった。

5日間にわたって両国橋の上流、下流それぞれ約20メートルの範囲にわたって、潜水夫や漁業用の用具を動員して川ざらいしたのだ。

その結果、パチンコ玉数百個などたくさんの金物は出てきたけれども、庖丁はついに見つからなかった。

ところが、茂子有罪とした二審の裁判官は「刺身庖丁が投棄の場所に存在するとしても発見の能否は別個の問題で、右のごとく発見できなかったといって直ちに投棄の事実を否定し得ない」と片付けていた。

これはシロウトがみてもおかしな論理だ。

つまり、川ざらいして庖丁が見つからなかったという事実は、庖丁投棄そのものを否定する判断材料にはなるけれども、反対に庖丁投棄を認める材料にはならない。

それをあえて「投棄したことはまちがいない」という判断材料にするためには、なぜそう言えるかという、裏付けが必要だ。

ところが判決はそんなことにはお構いなく、強引に、庖丁が出てこなかった事実を葬り去り、庖丁を投棄したという西野証言を生かしていたのである。

私はかつて問題の二審判決を言い渡した裁判官を自宅に訪ねたことがある。

支局の記者ではなく、東京からわざわざ来た本社の記者ということが影響したのか、立派な邸宅の応接間へ上げてくれた。

その地方では有名な旧家で、兄弟が長く県知事をつとめるなど、地方のもっとも有力な階層の出身者である。

人当たりがよく、愛想のよい応対ぶりは意外なほどだった。

だが意外だったのはそれだけでなく、判決の疑問点を問いただしていくと、「いやあ、あの事件ほどむつかしい、よくわからない事件はなかった。最後の最後まで判決に迷ったのをよく覚えていますよ」と、しきりに難事件だったことを強調する。

それならばなぜ、あのような判決を下したのか、私は話を聞いているうちに、どうやら確信のないまま なかばサイコロを振る感じで、検察側のほうへ振ったのではないか、そうしておけばまず安全だろうという判断放棄の状態で・・・そんな印象を抱いた。

さして困惑したようすもなく、かつて体験した事例のひとつを思い出として語っていく調子の話を聞きながら、この人にはきっと、山村の集落で育った西野・阿部少年らのおびえや不安に共感を寄せることがむつかしかったろうし、まして殺人犯にされて刑務所に閉じ込められている人間の苦悶など想像したこともないのだろうな、とその屈託のなさにとまどいさえ覚えたものだ。

via:われの言葉は火と狂い

 

無罪判決!事件から32年後の真実

長い裁判逃走の末、ついに1980年12月13日、ラジオ商殺しの再審請求が認められることになったのだが(第6次再審請求) この前年に冨士茂子さんは亡くなっていた。

冨士茂子さんは第5次再審請求中の1979年11月15日に腎臓がんのため死去している。享年69歳。

第6次再審請求を冨士茂子さんの遺族が受け継いでいき、冨士茂子さんの死から6年後の1985年7月9日、徳島地方裁判所は無罪判決を出した。

それは事件発生から32年後のことであり、徳島ラジオ商殺人事件は日本初の死後再審が行われた判例となった。

ようやく冨士茂子さんの無実は明らかにされ、認められた。

無罪判決を勝ち得た理由は、◆有罪の決め手となった少年店員の証言は偽証の疑いが強かったこと ◆冨士茂子さんに三枝亀三郎さんを殺害すべき動機がなかったこと ◆外部からの侵入者による犯行をうがかわせる証拠が多かったこと…などである。

徳島ラジオ商殺人事件の再審請求は 冨士茂子さんの無罪を明かすと同時に、当時の捜査機関のずさんな捜査を糾弾することとなった。

1985年12月12日に徳島地方裁判所は冨士茂子さんの娘に対して、逮捕から仮出所までの4493日間、 7200円/日 の 3235万円の刑事補償を支払うことを決定した。

しかし、徳島ラジオ商殺しの真犯人は誰だったのか・・・本当に沼津署に自首してきた男だったのかどうか。

未だ真相は闇の中である。
 
 

瀬戸内寂聴の胸に残る、魂震わせた冨士茂子の言葉

冨士茂子さんが亡くなる10日前の病床で、お見舞いにやってきた瀬戸内寂聴に対して

冨士茂子
何もしていないのに・・・
冤罪を犯したり。
人間はどんなに不確実なものか
愚かなものか・・・。

これが瀬戸内寂聴が聞いた、もっとも悲しい人生の女の言葉だった。

 
 
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