都井睦雄(といむつお)の生い立ち【津山三十人殺し】

都井睦雄と祖母いねに血縁関係はなかった

都井家は「倉見」地区が発祥の由緒ある名家で、山や棚田をたくさん所有する資産家だった。

都井睦雄の祖父は菊次郎、そして都井睦雄の父親の振一郎は都井本家の長男で跡継ぎだった。

睦雄の父・振一郎が生まれたのは、睦雄の育ての親である祖母・いねが都井家に嫁ぐ前のこと。

つまり祖母・いねは菊次郎の後妻なので、都井睦雄といねの血縁関係はなかったのである。

都井睦雄といねの間に血縁関係がないことは、津山事件報告書に付された戸籍からも判明している。
 
 
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津山事件の犯人、都井睦雄(といむつお)の生い立ち

ろうがい筋の烙印

都井睦雄は大正6年3月5日生まれ。

父・振一郎と母・君代の間に長男として生まれ、3歳年上の姉・みな子がいた。

睦雄が生まれた翌年の大正7年、祖父で当主の菊次郎が結核で他界。

そしてその5か月後には父親・振一郎が肺結核で亡くなってしまった。

当時の山奥で暮らす人々は、都井家の当主が半年間で立て続けに亡くなったことを口々に「何かの祟りではないか!?」と噂した。

また相次ぐ肺病の連続死で、都井一家には労咳筋(ろうがいすじ・労咳=肺病)の烙印が押され、忌み嫌われた。

そんなわけで二人の当主を失った都井宗家の家督は、当時まだ1歳だった赤ん坊の睦雄が相続することになり、その親権者として、母親の君代が家督の管理を行っていた。

ところが君代も、夫の振一郎が亡くなって半年もたたない大正8年の春、結核により26歳の若さで亡くなってしまったのである。

都井宗家のお家騒動

母が亡くなったことで 睦雄が都井家の家督を相続する資格があるにもかかわらず、厄介な問題が浮上し 都井家のお家騒動が勃発した。

■労咳筋に、由緒ある都井宗家を継がせていいのか?

■家を継がせるのに、睦雄は幼すぎるのでは?

■睦雄が跡を継げば、彼が成人するまで都井家の資産を管理するのは菊次郎の後妻のいねになるが、いねは睦雄と血縁関係がないから、ひいては都井宗家とも血縁関係がない…そんな後妻に都井家の資産を管理させるわけにはいかない。

これらの理由から 大正9年秋、幼い睦雄と姉は、血のつながらない祖母のいねとともに倉見地区から追い払われ、ほどなくいねの故郷の貝身地区に身を寄せることになった。
 
都井家の資産のほとんどは菊次郎の弟一族が相続し、睦雄が受け継いだのは少しの田畑と山林だけ。

それはつつましく暮らせば一生暮らせる程度の資産だったが、それが睦雄に対する事実上の手切れ金で、睦雄が受け継いだ資産は都井宗家の資産全体からすれば「はした金」だったと言われている。
 
 
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親戚縁者の詐欺と裏切り

日中戦争がはじまり、次第に生活が苦しくなってきた昭和10年春、睦雄は倉見に残してきた資産を売却しなければやっていけない状態になった。

その時にそれを安く買いたたいたのが都井本家を相続した大叔父一族だった。

その交渉の時に睦雄は自分の両親や祖父が肺病で亡くなっており、自分が労咳筋だということを知ったと思われる。

津山事件の直前にも、別の親せきが睦雄の家を安く買い叩こうとして都井睦雄と大喧嘩をしている。

都井宗家から放逐されたことや親戚に相次いで裏切られたと思い絶望したこと・・・これも津山事件の一因である可能性がゼロではないかもしれない。

都井睦雄と親族の間にはこういった財産を巡るいざこざもあったため、津山事件が起こったとき、倉見の本家を継いだ当主である叔父は睦雄の復讐を受けると思い込んだ。

そして土蔵の中に3日間隠れて出てこなかったという逸話が残っている。

津山事件は自分を捨てた女への恨みだけで起こったわけではない!?

祖父、父、母の結核による連続死で「ろうがいすじ」と差別されたこと。

はした金を渡されて都井宗家から放逐されたこと。

血のつながりのない祖母とのくらし。

もしこれらが、睦雄の心を壊してあの凶行に向かわせた原因であるならば、「自分を捨てた女への恨みを晴らすため」だけに津山事件が起こったわけではないかもしれない。

筑波昭氏の津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇での本事件の解釈は「自分を裏切った女への恨み」がメインとされていたが、こうして都井睦雄の生い立ちを見てみると、都井睦雄の苦悩はそんな単純な話ではなかったのではないかと思えてくる。

横溝正史の描く世界を地でいくような、ある意味ドラマティックな都井睦雄の生い立ちと境遇を 彼自身はどう捉えていたのだろう?

都井睦雄の心の中にのみ存在したどす黒い真実は、もはや誰にもわからない。
 
 
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