連合赤軍あさま山荘事件で田中保彦さん死亡。民間人がなぜ!?

連合赤軍あさま山荘事件 田中保彦さん死亡

via:https://ameblo.jp/shino119/

浅間山荘事件は戦後屈指の大事件である。

当時の全国民の目がテレビを通して、軽井沢の山荘に釘付けになった。

連合赤軍は、共産同赤軍派と毛沢東路線の武闘派京浜安保共闘の連合体である。

よど号事件後の赤軍派はP作戦(政府要人の誘拐) M作戦(資金調達)を戦術採用、米子、相模原、宮城等々全国各地で銀行・郵便局を襲撃。

一方、京浜安保共闘も1945年12月18日、東京・板橋で交番を襲撃、拳銃の奪取を企てる。

これは失敗に終わったが(一人射殺、二人が重傷を負い逮捕) 翌年1946年2月17日、栃木県真岡市の銃砲店を襲い、散弾銃十丁、散弾1500発の奪取に成功。

追い詰められた2つの組織が、武装路線堅持の一点において連合する素地が整った。

赤軍派には奪取した百万単位の金があり、京浜安保には十丁の銃があった。

こうして両組織は1946年夏までに連合した。

が、都市はすでにアパート・ローラー作戦の中、彼らの活動の場所ではなくなっていた。

以後、軍事訓練のため丹沢、榛名、妙義山中の山岳アジトを転々、滅びの道をひた走る。

スパイ養成、情報収集等にかけては日本の警察は定評がある。

捜査の手が山岳地帯に及んだのは、1947年2月である。

3000の警官が山狩りに参加し、2月16・17日森恒夫、永田洋子ら4人を妙義山中で逮捕。

2月19日、植垣康博ら4人を軽井沢駅で逮捕。

2月19日午後、警官隊と遭遇した5人の連合赤軍メンバーは、銃撃戦を交えたあと、河合楽器の保養施設「浅間山荘」に逃げ込み、管理人の妻を人質に取り篭城。

攻防戦が始まる。

連合赤軍浅間山荘事件

via:https://youtu.be/LUj0kuQNpmA

 
2月28日、警察はクレーン車から吊るした大鉄球で、三階部分を破壊、突入。

銃撃戦の末、夕方5人を逮捕、人質の牟田泰子さんは無事だった。

この間、警官が二名射殺された。

突入時、警官が使った催涙弾約1000発、実弾発射15発、放水100トンに上る。

via:犯罪の昭和史3

>>浅間山荘事件・関連動画その1(6:11)

>>浅間山荘事件・関連動画その2(8:16)

>>浅間山荘事件・関連動画その3(6:31)
 
 
浅間山荘事件で殉職者が出たのは事件10日目(最終日)の2月28日である。

この日は人質の体力が限界だろうと考えて、警察は強行救出作戦を敢行した。

そして機動隊員2名の命という大きな犠牲を払ったものの作戦は成功し、人質の救出と犯人の逮捕を成し遂げたのだった。

動画などでクローズアップされるのは機動隊員2名が銃弾を浴びた場面のみ。

でも本当は、いちばん最初に犯人の銃弾を浴びたのは民間人の田中保彦さんだった。

田中保彦さんは2月22日に坂口弘の拳銃によって被弾し、3月1日に亡くなっている。

ちなみに坂口弘は1993. 2.19に最高裁で死刑判決が確定し、2017年8月現在70歳で 死刑は未だ執行されておらず 東京拘置所に収監中である。
 
 
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あさま山荘事件 浅間山荘事件via:事件現場(大島てる) 
 

恐怖の山荘にのこのこと一人の男。

無造作に玄関に入ろうとし、戻ってくるところを背後に銃声一発。

バッタリ倒れた男の血が真っ白な雪にしみた。

ろう城4日目を迎えた2月22日、浅間山荘事件ではじめて重傷者が出た。

三日間もこう着状態が続いた後の山荘に、この血なまぐさいハプニングが起きたのは、犯人たちに連合赤軍の息子を持つ二人の母親が発砲にもめげず、涙混じりに訴えたすぐあとのことだった。

このあと警官二人も銃撃されて負傷、空気は険しさに包まれている。

警備軍の虚を着いたハプニングだった。

包囲する機動隊に向かって浅間山荘の中から散発的に銃弾が撃たれたあと、動きが静かになったほんのわずかな瞬間。

山荘の裏手のポプラ通りのがけを、一人の男がトコトコと駆け登り、山荘を一回りして あっという間に玄関前へ。

「あぶない。ひっこめ!」と機動隊員から声が飛ぶ。

遠くから見ていた記者は警察側の「忍者」かとも思った。

が、男は警官の声に「大丈夫だ」というように大きな身振り。

勝手口をノックし、三十秒ほど立ち止まった。

玄関の前では換気口の上の「銃眼」付近にいる犯人と話し始めた。

「奥さんは元気か。知り合いではないが会わせてくれ」「これこの通り、武器も何も持っていないよ」などと、男は犯人に掛け合った。

犯人がどう答えたかははっきりわからなかったが、男は思い切ってドアを引っ張った。

すぐドアが開いたので、軒先に前日から置いてあった泰子さん宛ての郁男さんの包みを取り上げた。

そこから中は調度品などを積み重ねたバリケード。

男はバリケード越しに包みを犯人に手渡そうとした。

「さがれ」と機動隊員の鋭い声。

「うるさい」と男は怒鳴り返した。

大胆というか、無謀というか、なんとも驚いたこの男の動きと表情だった。

外の警官や遠く離れた報道陣に向かって右手を上げ「大丈夫だ」というようなサインを送り、「果物を受け取ってくれないよ」とも見える合図をして見せた。

山の上の機動隊員と山荘の玄関までの距離は約35メートル。

近づくに近づけず、ハラハラしていた機動隊員十人は午後零時ごろ、ピストルを用意し、うち四人が腹ばいになって近づこうとした。

「ズドーン」という音とともに男がバッタリ仰向けに倒れたのはその直後だった。

一瞬、死んだと思われた。

が、しばらくすると頭を上げ、右手を挙げた。

辺りを見回した。

ようやく自分の力で立ち上がり、道路のほうに歩き出した。

警備者が前進、機動隊員がすばやく救出した。

午後零時十九分だった。

via:朝日新聞 1972年2月22日夕刊

朝日新聞によると、この男性、田中保彦さんは一人暮らし(妻子と別居)の変わり者で、2月21日に知人に「軽井沢に行く」と言い残して、新潟市の自宅を出たという。

田中保彦さんは報道であさま山荘事件を知って義憤を感じ、犯人の説得をかって出ようとしたと思われる。

犯人に撃たれて重傷を負った田中さんは入院していたが、3月1日に死亡した。

長野県軽井沢町の連合赤軍事件で去る2月22日、浅間山荘に近づき 犯人に頭を撃たれた新潟市××× スナック経営者 田中保彦さん(30)は3月1日午前1時10分、上田市の小林脳外科病院で肺炎を併発して死亡した。

田中さんは警備陣のすきをついて山荘に近づき、玄関前で犯人に至近距離から右後頭部を撃たれ、病院で二度手術を受けていた。

これで同事件による死者は殉職二警官とあわせて三人となった。

via:朝日新聞 1972年3月1日夕刊

連合赤軍事件の警察官二名の殉職はほぼ即死というショッキングなものだった。

また犯人逮捕後に判明したリンチ殺人(連合赤軍山岳ベース事件)はさらにショッキングだったので、一民間人の死はあまり目を向けられることがなかったのだ。

田中保彦さんが銃撃されたときの模様は、浅間山荘に立てこもっていたメンバーの一人の当時16歳のM少年の見聞が残っている。

用事があってM少年が調理人室に入ると、玄関のほうから「赤軍さん、赤軍さん」という男の声が聞こえてきたので、管理人室の押入れの天井裏の銃眼から覗くと、一人の男が玄関のほうを向いて立っていた。

直感的に警察官だと思って「いちょうの間」にいる坂口に報告した。

(中略) 男は玄関に向かって「赤軍さん、赤軍さん、私も左翼です。あなた方の気持ちは判ります。中へ入れてください。私も昨日まで留置場に入ってたんです。私は警察が憎い。私は妻子と離縁してきた。私は医者をやっております。新潟から来たんです」と言っていた。

via:あさま山荘事件

 
 
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