平将門の首塚について「世界のなんだコレ!?ミステリー」2025年1月15日放送で明らかになった驚きの事実をご紹介します。
日本経済の中心地である大手町の、高層ビルに囲まれた広大な空き地。1坪9000万円という超一等地に、ひとつの石碑が鎮座し続けている不思議な場所があります。
かつて「祟りの場所」として恐れられていた平将門の首塚。しかし、取材を進めていくと、そこには私たちの想像をはるかに超える歴史的な意味と、現代に通じる不思議なパワーが秘められていることがわかりました。
この記事では、首塚にまつわる以下のような謎について、番組の取材内容と共に詳しくご紹介していきます。
推定地価45億円の土地が、なぜ開発されずに残されているのか
「祟り」と言われた不可解な出来事の真相
現代のビジネスマンたちを魅了する「勝運パワー」の正体
400年の歴史に秘められた意外な事実
経済効率だけでは測れない日本の伝統と、それを守り続ける企業や地域の人々の姿勢。その驚くべき真実を、番組の取材内容と共にお伝えしていきます。
平将門の乱から首塚成立までの歴史的経緯
平将門の首塚の歴史は、平安時代にまで遡ります。時の朝廷に叛旗を翻し、「新皇」を称した平将門の波乱の人生と、その死後に起きた不思議な出来事は、現代まで語り継がれています。
関東の英雄・平将門の最期
940年(天慶3年)、平将門は朝廷から追討軍を送られ、下総国(現在の千葉県)で戦死しました。将門は関東の豪族として名を馳せ、地元の人々からの信頼も厚かったと伝えられています。
死後、将門の首は京都へ送られることになりました。当時は反乱者の首を都に送り、これを晒す習慣があったためです。しかし、ここから不思議な出来事が始まったのです。
伝説の「飛来」と首塚の誕生
朝廷に送られた将門の首は、京都の飛鳥井(現在の下京区)に晒されていました。ところが、夜になると首が光を放ち、空を飛んで関東へ戻ろうとしたといいます。
この「飛来伝説」について、江戸時代の地誌『江戸名所図会』には次のように記されています。
夜な夜な首が光を放って飛び上がる
都の人々が恐れおののく
ついに首は関東の地に飛び去る
現在の大手町付近に落ちた
この伝説は、将門の関東への深い愛着を表す物語として、人々の心に強く残りました。
江戸時代以前の首塚の変遷
首が落ちたとされる場所には、やがて塚が築かれ、人々の信仰を集めるようになっていきました。
鎌倉時代から室町時代へ
鎌倉時代には、すでにこの地が「将門の首塚」として知られるようになっていました。武家社会において、勇猛な武将であった将門への尊敬の念は特に強く、その供養の場として重要視されていました。
室町時代に入ると、首塚は関東における重要な信仰の場のひとつとなります。当時の武将たちは、戦の前にここを訪れて武運を祈願したという記録も残っています。
戦国時代の動乱を超えて
戦国時代、首塚のある地域も度々の戦乱に見舞われましたが、不思議なことに塚自体は無事に存続。むしろ、乱世を生き抜くための象徴として、より一層の信仰を集めることになりました。
江戸時代から終戦までの首塚
江戸時代に入ると、首塚は新たな意味を持つようになります。
江戸幕府との関係
徳川家康が江戸に幕府を開いた後、首塚は次第に「江戸総鎮守」としての性格を帯びていきました。神田明神との関係も深まり、江戸の人々の暮らしを守る存在として広く信仰されるようになったのです。
明治維新後の危機
明治維新後、首塚は存続の危機を迎えます。新政府による神仏分離令の影響で、多くの歴史的な祭祀場が失われていく中、首塚も一時は存続が危ぶまれました。しかし、地域の人々の強い要望により、そのまま保存されることになりました。
関東大震災と戦時中の首塚
1923年の関東大震災で、首塚周辺も大きな被害を受けます。この時、大蔵省の再建工事に伴い首塚の移転が検討されましたが、様々な不可解な出来事が起きたため、そのまま残されることになりました。
太平洋戦争中も、首塚は空襲の危機にさらされましたが、不思議なことに直接の被害を免れました。戦後、GHQによる接収の話もありましたが、これも実現せず、現在の場所に残り続けることになったのです。
このように、平将門の首塚は1000年以上もの間、様々な危機を乗り越えて存続してきました。それは単なる偶然ではなく、この場所が持つ特別な意味と、それを守り続けてきた人々の思いが作り出した、小さな奇跡だったのかもしれません。
大手町に鎮座する平将門の首塚の土地の価値
「周りは高層ビルなのに、ここだけすごい異様な空間ですね」と蛍原徹さんも驚きの声を上げた平将門の首塚。
この場所には平将門の首が埋められているとされ、江戸時代から庶民の信仰を集めてきました。首塚がある場所の地価を調べてみると、驚きの金額が判明しました。
1坪あたりおよそ9,000万円
敷地面積は約50坪
総額にして約45億円の価値
都内有数の超一等地
このように莫大な価値を持つ土地にもかかわらず、開発されることなく石碑として残されているのです。カンニング竹山さんも「ビル建てたいよね、みんな」とコメントしましたが、そこには興味深い理由が隠されていました。
噂の「平将門の首塚の祟り」の真相
首塚には長年、不思議な噂が囁かれてきました。その影響力は強く、国税庁のホームページにも、かつての出来事が正式に記録されているほどです。
大蔵省での不可解な出来事
明治4(1871)年の廃藩置県後、大蔵省は神田橋内の旧姫路藩酒井雅楽守(うたのかみ)邸跡に庁舎を置きますが、かねてよりここには将門の首塚がありました。明治7年、ここに内務省と合同の木造二階建ての新庁舎を建てますが、大正12(1923)年の関東大震災で焼失し、翌年、跡地に仮庁舎を建てる際に首塚が壊されました。
その後、大正15(1926)年、第一次若槻礼次郎内閣で大蔵大臣であった早速整爾(はやみせいじ)(1868~1926)が突然亡くなり、管財局技師で工事部長だった矢橋賢吉(1869~1927)が亡くなるなど続けて不幸があったため、仮庁舎建設に際する祟りが噂されるようになり、昭和2(1927)年に鎮魂碑を立てたといわれています。
大蔵省に関わる祟りが事実か否かは確かめようもありませんが、昭和15(1940)年6月には、落雷による大蔵省庁舎焼失を含む大手町官庁街の火災が起こり、また、太平洋戦争後、米軍が塚を整地しようとした時にブルドーザー横転事故が起きて運転者が亡くなっています。 (参考)首塚は東京国税局近くのビルの谷間(東京都千代田区大手町1丁目2番1号外)に今も存在しています。
via:国税庁HP
大正12年の関東大震災後、当時の大蔵省が再建工事を行った際、首塚を取り壊そうとしました。しかし、その後に次のような不可解な出来事が続いたといいます。
工事に関わった大蔵大臣の突然の死去
工事部長も相次いで他界
GHQ時代にも車両事故が発生
その後の開発計画も次々と頓挫
これらの出来事により、首塚には「祟りがある」という噂が広まっていきました。
現代でも語り継がれる不思議な力
番組取材班が現地で話を聞いたところ、現代でも首塚にまつわる不思議な体験を語る人が少なくありませんでした。
「この場所に建物を建てようとすると、必ず何か起こるんです」という声や、「工事を始めると機械が動かなくなった」といった噂も聞かれました。こうした言い伝えは、いつしか首塚の神秘的なイメージを強めていったのです。
意外な展開!実は将門塚は強力なパワースポットだった
取材を進めると、首塚には意外な一面があることがわかってきました。「祟り」とは正反対の、人々を魅了する不思議な力が存在していたのです。
取材班が首塚を訪れると、多くのビジネスマンが手を合わせている光景に出会いました。ある参拝者は「平将門が戦いに勝ち続けたという歴史があり、勝運のパワースポットとして有名なんです」と語ります。
実際、参拝者たちからは次のような声が聞かれました。
「大きな商談が成功した」
「仕事運が上向きになった」
「昇進や異動の際にお参りする」
「毎月必ず参拝している」
このように、首塚は現代のビジネスパーソンたちにとって、特別な意味を持つ場所となっているのです。
神田明神が語る!首塚の歴史的真実
首塚の謎を解き明かすため、取材班は管理者である神田明神を訪問しました。実は、この場所には多くの人が知らない歴史的な意味が隠されていたのです。
かつての神田明神の聖地
神田明神の神職の方が明かしたのは、意外な事実でした。
「もともとその首塚のあたりは神田明神旧跡地という風に言われていて、ここに移転する前にですね、数百年前にわたって神田明神が鎮座していた場所なんです」
つまり、現在は千代田区外神田にある神田明神は、約400年前までこの大手町の地に鎮座していたということ。首塚の地には、そんな歴史的な由緒が刻まれていたのです。
地元企業による歴史継承の取り組み
さらに興味深いのは、現代の企業がこの歴史を守り続けている点です。大手町周辺の企業が中心となって「将門塚保存会」を結成し、次のような活動を行っています。
首塚の日常的な管理と清掃
年中行事の実施
伝統行事「神田祭」への参加
歴史や文化の伝承活動
特に神田祭では、平将門の御霊が乗った神輿が担がれ、地域の人々によって大切に受け継がれています。
また、将門塚は2020年から2021年にかけて第6次改修工事が行われ、整地とともに、敷地内の樹木が大幅に整理されました。
以前は樹木が大きくなりすぎて管理が困難になっていましたが、新しい設計では植栽の範囲が限定。周囲に木塀が設置され、砕石を敷き詰めた「砕石の海」が造られ、その中に岩が配置されました。これは日本庭園の要素を取り入れたデザインです。
将門塚は「祟り」ではなく「守護」の象徴だった
取材を通じて見えてきたのは、単なる「祟りの場所」ではない、首塚の本当の姿でした。
企業が守り続ける理由
神田明神の神職は、建物が建てられない理由について、こう語っています。
「祟りがあるからというより、昔から祈りの場所なので、あまり開発しないというのは普通のことかなと思います。数百年にわたって、色んな人が手を合わせてきた場所ですから」
つまり、「祟り」を恐れてというよりも、歴史ある「聖地」として、企業や地域の人々が自主的に保護しているというわけです。
現代に息づく江戸の心意気
取材で見えてきたのは、経済効率だけでは測れない価値観でした。地価45億円という莫大な経済的価値よりも、歴史と伝統を重んじる日本の文化が、この場所には息づいているのです。
番組に出演した峯岸みなみさんは「お金には換えられない大切なものがある。それを守り続ける企業の姿勢に感動しました」とコメントしています。
平将門の首塚が伝える日本の伝統と誇り【総括】
大手町の一等地に鎮座する平将門の首塚
敷地の推定価値は約45億円
大正時代の不可解な出来事から「祟り」の噂
国税庁の公式サイトにも記載されたミステリアスな現象
実は400年前まで神田明神の聖地
現代では「勝運」のパワースポットとして人気
多くのビジネスマンが参拝に訪れる聖地に
地元企業が「将門塚保存会」を結成
神田祭では平将門の御霊を祀る神輿が巡行
経済価値より歴史・文化を重視する日本の精神
企業と地域が一体となった伝統継承
「祟り」ではなく「守護」の象徴として存在
「世界の何だコレ!?ミステリー」では、私たちの知らなかった首塚の真実が明らかになりました。経済的価値よりも歴史や伝統を大切にする日本の心、そしてそれを守り続ける企業や地域の人々の姿勢は、現代を生きる私たちに大切なメッセージを投げかけているのかもしれません。