サリン事件…松本と地下鉄!警察がオウムの暴走を防げなかったのはなぜか?

1994年 オウム教団の資金ルートを追え!(神奈川県警編)

オウム犯罪の捜査線上で神奈川県警・捜査本部(坂本弁護士一家殺害事件を担当)が特に注目していたのは、オウム教団の資金の流れでした。

オウム真理教が宗教法人としてお布施という名のもとに信者から莫大な金を集めているのはわかっていたものの、それを教団がどのように使っているかは謎でした。

そこで捜査本部は教団の資金ルートを解明する専門チームを発足し、資金の流れを洗い始めました。

教団名義の取引を片っ端から照会していき、ついに10の金融機関に23の教団口座と301の取引業者を割り出したのです。

その中から捜査員の目に留まったのが2つの会社でした。

ベック株式会社(山梨県田富町)と株式会社ベル・エポック(静岡県静岡市)

これらは化学薬品の輸入・製造・販売をしている会社ですが、さらに調べを進めていった捜査員は思わず息を呑みました・・・これらの会社役員がオウム教団信者だったからです。

・・・ということはこの2つはオウムのダミー会社。

オウムは化学薬品を扱う会社を立ち上げて、秘密裏にサリンの原材料を集めていたことは、警察がこの段階では知る由もありませんでしたが。
 
 
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1994年春、麻原彰晃が説法の中でサリンの存在を匂わせた!?

この頃も捜査員は出家信者に聞き込みを続けており、「麻原が説法でサリンの話をしたらしい」という情報を掴んでいました。

さらに捜査を進めると、オウムの機関誌「真理インフォメーション」1994年4・5月号の中から、麻原が「サリン」と口にしているところを見つけたのです。

当時、サリンの存在は 日本では一部の専門家しか知らないものでしが、それを麻原は知っていたのです。

1994年6月27日 松本サリン事件発生

6月27日午後10時40分頃、長野県松本市北深志1丁目の閑静な住宅街でそれは起こりました。

住民が「異臭がする」「手がしびれる」「目が見えない」と訴えたのです。

「松本サリン事件」の実行犯に疑われた河野義行(こうのよしゆき)さんは その時自宅の1階でテレビを見ていました。

彼の妻・澄子さんが不調を訴えはじめ、外が騒々しくなったので家から出てみると、愛犬が泡を吹いて倒れているところに遭遇しました。

あわてて家の中に戻ると 澄子さんはあおむけに倒れており、妻に声をかけていた長女も倒れ込んでいます。

河野さんはすぐに消防に通報しました。

それは午後11時を過ぎたころで、河野義行さんが松本サリン事件の第一通報者となったのです。

この「松本サリン事件」の死者は8人、負傷者は150人以上。

サリン被害で意識不明が続いていた河野さんの妻は14年間の介護の末、2008年にこの世を去りました。

長野県警は第一通報者であり、自宅周辺の草木の枯れ具合が特に激しかった河野義行さんを容疑者として自宅を捜索しました。

河野さん宅から多数の薬品が見つかったことで色めきたったマスコミが 河野さんを事実上の犯人のように報じました。

もちろんこれは冤罪ですが、わけもわからない薬品の中毒で多数の被害者が出たことで、薬品を複数所持していた河野さんが疑いの目で見られることになってしまったのです。

実は長野県警の中には河野さんが犯人だと思い込んでいた捜査員も少なくありませんでしたが、その一方で 松本サリン事件の極秘チームの捜査員は、河野さんは犯人ではないという確信を持って捜査していたのです。

これほど殺傷能力の高い薬品を一個人が作れるわけがないと確信していたために、逆に河野さんが犯人のはずがないという意見も一部にはあったのです。
 
 
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1994年7月3日、原因物質が「サリン」と判明

事件発生6日後の7月3日、松本市内の毒ガス事件の原因物質が化学兵器「サリン」と判明しました。

その報告を長野県警・捜査一課が受けたとき、耳を疑ったといいます。

なぜならサリンは、ナチス・ドイツが化学兵器として開発した毒ガスだったからです。

そのころ「有機リン系の農薬からサリンが作れる」などの誤解がマスコミから流布されたため、被害の原因物質が判明しても、第一通報者の河野さんの疑いが簡単に晴れることはありませんでした。

1994年7月9日 オウム教団施設で異臭騒ぎ発生

この異臭騒ぎは教団施設の第七サティアン付近で発生しました。

深夜、近隣住民が 鼻を突くような異臭に耐えられず、警察に通報したのです。

朝になってから保険所が周辺地域の調査を行いましたが、悪臭の原因も発生場所も不明のままでした。

この時に第七サティアン周辺の草木が枯れていることは確認されていたものの、それは特に気に留められることはなく、県警に連絡されなかったようです。

1994年7月21日下旬  サリン生成薬品の流通ルートを追え!(長野県警編)

長野県警はサリン生成に必要な薬品の中で流通量が限られている「メチルホスホン酸ジメチル」の購入ルートからたどり始めました。

いくつかの購入先の中に唯一、個人で購入していた人物がおり、購入者をたどっていくとその住所はオウム教団であることがわかりました。

松本サリン事件の捜査線上にオウム教団が浮上したのは、この時が初めてです。

その後、静岡県の「ベル・エポック」というオウムのダミー会社がジメチルを購入していることも判明しました。

神奈川県警も薬品の流通ルートを調べていて「ベル・エポック」に行き着いていますが、長野県警はそれよりも1か月早くこの会社に行き着いていたのです。
 
 
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1994年7月30日 容疑者・河野さんの取り調べ開始

サリン中毒で入院していた河野さんの取り調べが その退院後すぐに始まりました。

この時の県警内では河野さんを犯人視する意見が多かったのですが、取り調べ担当官・吉池さんは河野さんは犯人ではないと思っていたそうです。

なので河野さんが犯人ではない確証を得るために取り調べに臨み、調べていくうちに実際に河野さんが犯人ではないと確信したといいます。

実際、長野県警の中には河野さんの冤罪が回避できたのは、吉池さんの功績であるという人もいます。

吉池さんとともに現場に臨場した捜査一家・特殊事件捜査係係長もこう証言していたのです。

係長
河野さんのような一般の人にサリンを作れるわけがない

コードネーム「Y」の極秘捜査

後に長野県警は極秘に「薬品販路捜査班」を新設しました(コードネーム「Y」)

オウムが得体のしれない宗教団体のため 捜査の狙いを悟られないようにコードネームをつけ、「Y」がオウムを織っていることは捜査本部内でも極秘とされていました。

なので「Y」が立ち上げられた時点でも、捜査本部内には河野さんが犯人だと考える捜査員の方が多数派だったのです。

1994年10月7日 教団施設の土壌採取

警視庁は長野県警へ オウム教団施設の周囲の土壌や草木の採取を指示しました。

教団施設は山梨県内ですが、長野県警の方がサリン捜査に精通していたため 警視庁は山梨県警ではなく長野県警に依頼したのです。

7月9日に山梨県上九一色村のオウム教団施設で異臭がし、松本サリン事件の時と同じように 周辺の一部の樹木が枯れて赤茶色に変色していましたので、その部分の調査です。

長野県警の捜査員二人は、オウム信者の見張りに見つからないように匍匐(ほふく)前進しながら教団施設に近づき、第七サティアン周辺の変色地域の土壌と草木を採取しました。

土壌と草木は警視庁の科学警察研究所に送られ、すぐさま鑑定にかけられました。

1994年11月 第七サティアン周辺でサリンの最終分解物の検出

1か月後、第七サティアン周辺から採取した土壌から、サリンの最終分解物である「メチルホスホン酸」が検出されました。

これにより、サリンがオウム教団施設で生成された可能性が高いことが判明。

こういう経緯があったことから、多くの人がサリンは上九一色村だけで開発されていたと思っていますが、実はそうではありません。

1993年ころにサリン生成は富士山麓の教団施設で始まっていたとされていますが、実はその3年前、1990年頃の熊本県波野村の教団施設でサリンの開発は始まっていたのです。

熊本県警が波野村施設に強制捜査に入る予定だったのですが、オウムはその情報を事前にキャッチしていて、即座に証拠隠滅をし、警察に尻尾を掴ませませんでした。

夫が熊本県警の警官である女性信者が諜報省の井上嘉浩に波野村の強制捜査情報を洩らしていたため、オウムはまんまと強制捜査から逃げおおせたのです。

つまりオウム真理教の武装化は1990年から始まっていたのですが、オウムの諜報活動が功を奏して それが早期に暴露されることはなかったのです。
 
 
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オウム教団がサリンを松本市でまいたのはなぜか?

実はオウム真理教が松本市に建設した教団施設を巡って、オウムは地域住民とトラブルを起こしていたのです。

長野地方裁判所松本支部では民事訴訟が起こされていました。

こういう経緯からオウムが松本サリン事件にかかわっているのではないかと考えられています。

1995年3月27日の東京新聞によれば、松本サリン事件の当日(1994年6月27日) 松本市の現場近くでオウム真理教の「修行セミナー」が開かれていました。

このセミナーは当初の予定では群馬県高崎市で予定されていたにもかかわらず、6月20日過ぎに急きょ会場を松本市に移していますが、この事実が報道されたのはずいぶん後のこと。

教団は松本サリン事件を起こすために セミナーの会場を変更したのだと思われます。

長野県警はなぜオウム教団に踏み込まなかったのか?

どうやらオウム教団施設内でサリンが作られていたらしいことがわかった。

さらに松本市内でサリンをまいた動機もわかった。

なのになぜ長野県警はこの時点でオウム教団へ乗り込むことをしなかったのか?

それには主に3つの理由が挙げられます。

■当時はサリンの製造・所持を取り締まる法律がなかった。

■サリンを散布した実行犯が特定できていなかったため、殺人などの容疑で教団内に入ることができなかった(令状が取れない)

■河野さん犯人説に固執する警察幹部がいた。

犯罪が起こっても、実行犯が特定されない限り令状を取ることができず、令状がなければ捜索や検挙も難しい。

これらの事情から長野県警としては令状がとれるまで、極秘捜査を続けるしか方法がありませんでした。

長野県警が地道な捜査をひたすら続け オウムのダミー会社がサリン生成に必要な薬品14種類を購入していた事実を突き止められたのは、1995年2月でした。
 
 
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1995年1月元旦 読売新聞がサリンのオウム関与をすっぱ抜いた!

元旦に読売新聞が、松本サリン事件とオウム教団とのかかわりを示すスクープ記事を掲載しました。

これを知った麻原彰晃は強制捜査を警戒して、その日のうちにサリンや工場の隠ぺいを指示しました。

この時に警察の強制捜査を警戒したオウム教団は、この1月の段階で手元のサリンを大量に処分していました。

そのため3月の地下鉄サリン事件で使われたサリンは、わずかに残っていた原料から製造した6リットルです。

これは徹夜で大急ぎで製造したサリンだったので精製が十分でなく、通常は無色透明であるサリンが茶色だったそうです。

1995年2月 公証役場事務長の監禁拉致事件発生

1995年2月28日 東京管内で起こったオウムによる公証役場事務長の監禁拉致事件をきっかけに、オウム教団への一斉捜査を行うことが決定しました。

そのXデーは3月22日。

Xデーに備えて3月19日には警察官たちは自衛隊に赴いて、防毒マスクの取り扱いの訓練を受けていました。

ところが、Xデーの2日前・・・

1995年3月20日 地下鉄サリン事件発生

公証役場事務長拉致事件を引き金に警視庁は山梨県上九一色村のオウム関連施設を一斉捜索しましたが オウムの暴走は止めることができず、3月20日に地下鉄サリン事件が発生したのです。

サリンによる死亡者数は12人、負傷者数は約6300人。

事件から2日後の3月22日に、警視庁はオウム真理教に対する強制捜査を実施し、事件への関与が判明した教団の幹部クラスの信者が逮捕され、林郁夫の自供がきっかけとなって全容が明らかになり、5月16日に教団教祖の麻原彰晃が事件の首謀者として逮捕された。

地下鉄サリン事件の逮捕者は40人近くに及んだ。

幹部クラスには麻原・村井秀夫・遠藤誠一・井上嘉浩・青山吉伸・石川公一の6人がいたが、謀議に積極的発言をした麻原・村井・遠藤・井上の4人の共謀が成立するとし、同乗しながら謀議に積極的な発言が確認できなかった青山と石川の共謀の立件は見送られた。

東京地方裁判所は、首謀者の麻原彰晃を始め、林郁夫を除く散布実行犯全員と、送迎役のうち新実智光に死刑を言い渡し、東京高等裁判所の控訴審ではさらに第一審では死刑求刑に対し無期懲役だった井上嘉浩に死刑判決が言い渡された。

実行役3人及び新実・井上両名の計5人に言い渡された死刑判決はいずれも最高裁判所で、2010年1月19日に新実の上告が棄却されたことをもって確定した。

2012年(平成24年)6月15日、この事件に関与したとして特別指名手配されていた高橋克也が逮捕され、地下鉄サリン事件で特別指名手配されていた容疑者は全員逮捕された。

高橋が逮捕されるまでに前述した新実を除く送迎役は全員求刑通り無期懲役判決が確定しており、高橋も他の送迎役同様一・二審で無期懲役判決(求刑同)を受け、2017年現在は最高裁に上告中である。

via:wikipedia

松本サリン事件の2か月後(1994年8月) 幹部の早川紀代秀はサリン散布の拠点として、10か所のテナントやマンションを借りている情報を捜査員は掴んでいました。

その場所は皇居をぐるりと囲む位置・・・捜査官たちはこの賃貸物件を何のためのものなのか?と首をかしげていたのです。

後にその理由がわかりました。

オウム教団は皇居の周りをぐるりと囲むエリア=国家の中枢機関を破壊して武力クーデターで政権奪取するシナリオを描いていたのです。

様々な陰謀が渦巻く中で、どうやら松本サリン事件は地下鉄サリン事件の予行演習だった可能性が高いということもわかってきました。

1995年3月23日付の読売新聞によれば、CBACI(アメリカの化学生物兵器軍縮研究所)は松本サリン事件を調査分析した報告書の中で、地下鉄サリン事件のような事件が起こりうると予言警告していました。

3月20日に地下鉄サリン事件が発生したのは、オウム側が警察の強制捜査の動きを察知・把握したうえでの先制攻撃という可能性も考えられました。

なぜなら 自衛隊の内部にもオウムの内通者がいたことが後に判明していますので、その筋から強制捜査の情報が漏れた可能性があるからです。

某テレビ番組では、地下鉄サリン事件の犯人らは、地下鉄霞ヶ関駅のA2出口を利用する乗客を狙った可能性があると報じていました。

この出口のすぐそばには警察庁があり、警察庁職員の出勤時間に合わせてサリンをまいた節があったからです。
 
 
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なぜオウムはサリンを作ったのか?

はっきりしたことは麻原彰晃にしかわからないことなのかもしれませんが、考えられることはざっくりこの2つなのではないかと思います。

擬似国家としてのオウムが現実国家と互角に戦うため!?

オウム真理教という宗教法人には現実の国家に近い内部組織が存在していました。

外務省、大蔵省、自治省、防衛庁などを置き、教団を一つの「国家」に見立てていました。

オウムという「擬似国家」が「現実国家」に対抗するための武器にサリンを選んだ…そして武力で互角に渡り合おうと考えたのではないか。

実は 警察の強制捜査では殉職者が出るかもしれないということまで想定されていたのです。

殉職者って・・・単なる「捜査」であるにもかかわらず、そこに携わる者たちは これから戦争に行くような…まるで軍事行動でも行うかのような覚悟をもっていたのでしょうね。

確かにそうですよね、オウムは殺人ガスを製造・保有していたのですから。

公務とはいえ、捜査員たちの身になって考えれば、何が飛び出すかわからないオウム教団への侵入は 非常に身の危険を感じる恐ろしいものだったはずです。

最後はオウム真理教信者だけが生き残るという予言を信じていた!?

初期のオウム真理教はインドや仏教的な真理が中心となっていたイメージがありますが、末期の頃は終末思想や選民思想に傾斜していったと考えられています。

つまり、全人類が滅亡してもオウム真理教信者だけは生き残る、みたいな…ノアの方舟的な?

例えばオウムが保有していた大型ヘリコプターを使って上空からサリンがまかれたとしても、オウム信者は防毒ガスや中和剤などの処置で難を逃れることができる準備ができているから大丈夫、みたいな。

ちょっと漫画みたいですが、全く考えられないことではありません。

なぜならオウム犯罪の実行犯たちは 殺人を「救済」に置き換えて実行していたからです。

「救済」という大義のためには殺人もいとわなかったことを考えると こんなありえないような空想話を突飛だと感じないのは私だけではないはず。

サリン残留物の検出や読売新聞スクープ時、もっと早く警察は動けなかったのか?

オウム教団が危険であることの予兆は、1994年末から1995年初頭にかけて分かりかけていたはずです。

第七サティアン付近のサリン残留物の検出は かなり危険な状況まで教団が暴走していることを示唆するものだったはず。

なのになぜ、もっと早い段階で警察は動かなかったのか?

その理由の一つは 警察がオウムの危険さを具体的に掴みきれていなかったこと。

熊本県警も神奈川県警も長野県警も山梨県警も警視庁も、それぞれにそれなりの情報を掴んではいたものの、当時はそれらの情報が共有されていませんでした。

それぞれがそれぞれのパズルのピースを持っていて捜査に捜査を重ねていたのですから、決して犯罪が起こるのを手をこまねいていたわけではありません。

でもそれは非常に効率が悪い捜査でもあった。

ただ当時は事件が都道府県をまたいでいるときは、相互協力などがかなり遅れてしまうということは普通にありました。

それに警察は基本的に、何かが発生した後に相互協力体制を組む場合が多いので。

でも実際にはそれでは遅い。

無差別テロを敢行したオウム真理教のような団体に対抗するための警察間の情報共有が遅すぎたのです。

団体が関与する事件だけに限らず 個人のストーカー事件にしても、警察の初動が遅かった…なんてことは未だにめずらしいことではないですよね。

もしもまたオウムのような組織が現れたとしたら、今の日本の警察ならあの頃とは違って うまく立ち回って予防線を張れるのか?と訊ねても、おそらく警察は自信をもって YESとは言えないでしょう。

今さらジローな発言ですけど 全組織で事件一つ一つに真剣に向き合い、危機感と情報をしっかり共有していれば、少なくとも地下鉄サリン事件だけは防げたような気がします・・・そんな甘くないか^^;
 
 
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