連合赤軍 あさま山荘事件と山岳ベース事件の舞台裏

赤ん坊を背負った女の失踪

1972年(昭和47年)2月7日早朝、群馬県迦葉山(かしょうざん)のふもとにある雑貨屋に、赤ん坊を背負った一人の小汚い女が現れた。

子供の具合が悪いので、タクシーを呼んでください。

その姿を見た雑貨屋の主人は驚き、気持ちが悪いと思った。

垢だらけの顔に、プンと鼻につく異臭。

汚れてねずみ色になった白のタートルネックのセーター、雪が降って氷点下14度だというのに、夏用のアノラックを羽織っている。

そして首から下はどこをどんな風に歩いてきたのか、雪をかぶって真っ白になっている。

タクシーが着くと女は逃げるようにして乗り込んでいった。

その女を気持ち悪いと思ったのはタクシーの運転手も同じである。

言われたとおりに榛名湖まで車を走らせたが、この女は赤ん坊を連れて榛名湖に入水自殺でもするつもりではないだろうかと思ったので、タクシー運転手は湖畔のレストランの主人とともに女を追いかけた。

すると女は、夫から逃れて家出をしてきたのだ…と言った。

警察に連絡を入れ、高崎署の巡査に自殺防止保護を求めて、彼らは女と赤ん坊を引き渡したが、運転手とレストラン主人の胸中には妙な不信感が残ったと言う。

それもそのはず、というか、彼らの予感は当たっていた。

子連れ蒸発の母親を装っていた女は、中村愛子、23歳。

日大付属高等看護学院で学園闘争のリーダーとなり、その後 京浜安保共闘に参加した女性である。

中村愛子は1946年末から榛名の山岳アジトに入っていた。

背負っていた赤ん坊は、京浜安保共闘・中京支部の山本順一(28歳)と妻・保子(28歳)の子・頼良(らいら・生後3ヶ月)ちゃん。

中村愛子は永田洋子(27歳)に命じられて、赤ん坊の世話係という任務を負っていた。

中村愛子が迦葉山を降りてきたのには理由があった。

金策のために東京方面に出かけていた永田洋子森恒夫(27歳)に「非常事態」の連絡をしなければならなくなったからだ。

山岳アジトで残酷な集団リンチが相次ぎ、我慢の限界に来た下級兵士たちの脱走が相次いでいたのである。

山岳ベースとあさま山荘【連合赤軍事件まとめ】総括という名の同志殺しと10日間の銃撃戦

永田洋子(ながたひろこ) 連合赤軍リンチ殺人事件 鬼女の生い立ち

坂口弘
迦葉山はヤバイ。
 
妙義山にアジトを移すから、ボスたちに知らせてくれ。

リーダー格の永田洋子と森恒夫の留守を預かって指揮権を持っていた坂口弘(25歳)の命を受けたのが中村愛子だった。

実は頼良ちゃんの実母である山本保子は逃亡していた。

生まれたばかりのわが子を置き去りにして逃げるほど、アジト内での生活が悲惨だったかがうかがい知ることができる。
 
 
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あさま山荘事件の5人が山荘にたどり着くまで

あさま山荘事件 浅間山荘事件via:事件現場(大島てる)
 
中村愛子が警察に保護されて、不審な点なしとして釈放された頃、地元の人が榛名湖畔から2キロほど離れた林道に、足立ナンバーのライトバンが乗り捨てられているのを発見している。

その車からは点々と人の足跡が続いていて、たどっていくと1キロ先の谷間に、何か大きなものを焼き払った形跡があった。

発見者は驚いて群馬県警に通報した。

捜査員はその焼け跡が連合赤軍のアジト跡だと断定し、付近を捜索した結果、そこから20キロほど離れた迦葉山山腹に放置されたままのアジト↓を発見した。

連合赤軍 アジトvia:https://www.jiji.com/
 

連合赤軍の連中はまだそれほど遠くへ逃げていないと感じた警視庁は、2月16日、関東・甲信越に非常警戒態勢を敷き、警官を動員して大掛かりな捜索を行うことにした。

その2月16日の午後に、警察の手が伸びていることを知った連合赤軍のメンバーは、妙義山アジトを捨てた。

そして長野県の県境まで逃げ延びようと試みたが、レンタカーは1台しかない。

そこでまず坂口弘 杉崎ミサ子(24歳) 奥沢修一(22歳) 青砥幹夫(22歳) 植垣康博(23歳) の5名が先発隊として山を降りることになった。

ところが妙義湖の近くで警官の車を見つけたときに慌てて引き返そうとした途端、ハンドルを取られてタイヤを泥の中にはめてしまう。

坂口弘と青砥幹夫、植垣康博の3名は他の2名を車に残し、アジトに駆け戻って危険を知らせた。

杉崎ミサ子と奥沢修一は時間稼ぎのために車の中で抵抗を続け、8時間後に逮捕された。

その間に9名の男女は、吹雪の中を長野県に向かって夜通し歩き続け、地図だけを頼りに山越えをした。

佐久を目指していた彼らがたどり着いたのは軽井沢の別荘地で、偵察と買い物のために男女2名ずつ計4名が市内に出たが、4人とも数ヶ月間風呂に入っていないため、どこに行っても目立つ。

体から身なりまで汚らしく異臭を放っていたため、一般市民に「指名手配中の過激派では!?」と一目で気づかれて通報され、あえなく御用となった。

その頃、残る5名は「あさま山荘」へと移動していった。

そして山荘の管理人の妻を人質にして、218時間もの間、警官隊を前にして抵抗し続けた。

あさま山荘事件の 坂口弘、坂東国男(25歳) 吉野雅邦(23歳) 少年2人(16歳と19歳) が逮捕されたとき、すでに2名の警官と1名の民間人の命が奪われていた。

あさま山荘での攻防はテレビ中継され、視聴率90パーセントという脅威の数字をたたき出していたらしいが、怒りと憎しみと不安を込めてブラウン管の中の銃撃戦を見ていた一般市民は、坂口弘らがどういうプロセスをたどって あさま山荘に立てこもったのかは この段階ではまだ知らなかった。

逮捕者の自供により、山岳アジトで14名のリンチが行われていたことが明るみに出たのは、3月以降のことである。
 
 
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森恒夫と永田洋子の逮捕劇

連合赤軍 山岳ベース事件via:http://brief-comment.com/blog/
 
永田洋子と森恒夫が潜伏していた妙義アジトの近くの岩場で逮捕されたのは、2月17日の朝である。

2人は中村愛子の知らせを受けて、妙義山に駆けつけてきたのだ。

途中の参道で張り込んでいた警官の職務質問を受けたときには二人で咄嗟に旅行中のカップルを装ってごまかしたが、その後は逃げ切れなかった。

350人の機動隊員と15頭の警察犬が妙義山中で大掛かりな山狩りを行ったので、万事休すだった。

仲間が脱出してもぬけのからになっていた妙義山アジトの近くで行き場を失ったまま岩場に潜んでいた永田洋子と森恒夫は、あっけなく機動隊員に発見された。

森恒夫は刃渡り15センチの匕首を抜いて抵抗したが、多勢に無勢である。

3発の威嚇射撃を受けた後、2人は捕らえられた。
 

アジトの発見とリンチ殺人の発覚

 
山岳アジトで凄惨なリンチがあったことを最初に自供したのは、ライトバンに8時間篭城した末に逮捕された奥沢修一だった。

その頃に警察はすでに妙義のアジト付近を捜索していて、汚れたい類の山を発見していた。

それらの衣類はナイフで切り裂かれていたり、ズボンには人糞がついていたりした。

これらを見た係官は、そのアジト内で殺人があったとピンと来た。

絞殺や撲殺されたとき、人は糞尿を垂れ流して死んでいくという。

それで逮捕者の中でもいちばん態度が柔らかかった奥沢修一を厳しく追及したところ、奥沢は震えながら自供を始めた。

奥沢修一
これは、大久保清事件よりも もっと恐ろしいことなのです。

自供から「総括」という名のリンチの実態が明らかになった。

榛名山アジトに集結していたメンバー29人のうち、12人が総括で殺されていたのだ。

同じ頃に、あさま山荘で捕まった16歳の高校生が12名の同志を殺したと自供を始めた。

山田孝の遺体が見つかったことと同志が自供したことにより、さすがの森恒夫も観念し、3月8日に上申書が提出された。

その中には殺害した12名のリストも含まれていた。

連合赤軍山岳ベース事件via:http://kwout.com/
 

3月7日、奥沢修一の自供に基づいて、群馬県警の捜査官が妙義アジトに踏み込んだところ、妙義山中腹から一人の男の遺体が掘り起こされた。

◆指紋照合により、山田孝(27歳)と判明。
 
 

3月10日、群馬県利根郡白沢村で、若い女性の遺体が発見された。

◆金子みちよ(24歳)はお腹に妊娠八ヶ月の胎児(女の子)を宿していた。
 
 

次の現場からは、仰向けの男と、その男に寄りかかるように横たわる女の遺体が現れた。

◆男は山本順一(28歳)で、山本保子の夫で、頼良ちゃんの父親である。

◆女は大槻節子(23歳)だった。
 
 

◆3月11日、群馬県倉渕村では、山崎順(21歳)の遺体が出た。
 
 

3月12日には4人一緒の墓地が発掘された。

◆小嶋和子(22歳)

◆尾崎充男(22歳)

◆加藤能敬(22歳)

◆進藤隆三郎(22歳)
 
 

3月13日には、残る3体が埋められた穴を発見した。

◆行方正時(22歳)

◆遠山三枝子(25歳)

◆寺岡恒一(24歳)
 
 

遠山三枝子は明治大学在学中、重信房子と親密な交流を持っていて、重信と並んで「赤軍二大美女」と呼ばれていた。

重信房子がアラブに発った後、「第二の重信」として活動するつもりで張り切っていたが、そのことが永田洋子の逆鱗に触れた。

「なんで化粧してるの?」「なんで髪を伸ばしてるの?」「なんで服を着替えてるの?」「なんで指輪してるの?」

遠山三枝子に永田洋子は執拗に自己批判を迫り…その凄惨さは筆舌に尽くしがたかった。

「総括」の対象者は 連合赤軍のリーダー、森恒夫と永田洋子の2人が決定していた。
 
 
12体の遺体にはいずれも胃の中にほとんど食べ物が入っていなかった。

検死によると主な死因は栄養失調による衰弱と凍死。

真冬の豪雪地帯に暖房もないところに縛り付けられ、食事を与えられずにリンチが加えられて亡くなったと判明している。

しかも、女性の遺体はどれも髪の毛を刈られていたという。

金子みちよのお腹には8ヶ月の女の子がいたが、胎児の写真を見せられた金子みちよの夫・吉野雅邦は留置場で声をあげて泣いたという。

これが革命の幻想芝居の幕切れだった。

同志がリンチの細部にわたる供述を始めていることを知った永田洋子の態度も次第に軟化していき、ついに3月13日に一連の犯行を自供した。

そして皮肉にも「総括」という言葉は、昭和47年の最大の流行語となった。

総括とは、本来は過去を振り返る「反省」を意味した。

当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。

しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化し、実態は私刑と化していった。

連合赤軍のリーダーであった森は「殴ることこそ指導」と考えていた。

殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという論理を展開し、仲間にも強いた。

総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」と言いながら殴った。

メンバーの一人は「俺のことを小ブル主義者と呼んだだろ」と口走ったことで、個人的な怨みで総括を行っているとして、総括要求された。

散々殴られたうえにロープで吊るされ、さらに激しい暴行を加えられ、1971年12月31日に死亡した。

メンバーは総括で予期せぬ死者を出したことに一時は動揺したが、森はこれを「総括できなかったための敗北死」とし、総括を継続した。

via:wikipedia

 
 
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