当サイトはアフィリエイト広告を利用しています

本ページはプロモーションが含まれています

大久保清の墓!10年さまよった行く当てのない遺骨のゆくえ

大久保清事件の発覚当時、現場周辺や遺族の自宅に詰めかけるマスコミの数は半端なかった。

ガイシャの一人の自宅が近所だった私は 当時は未就学児だったので 何が何だかわからなかったけれど、子どもながらもただならぬ空気感は感じ取っていた。

大久保清の墓!10年さまよった行く当てのない遺骨のゆくえ

大久保清の墓

当初は大久保清が黙秘と虚偽の自供を続けていたため全容解明がなかなか進まなかった。

その間も 近隣住民がインタビュー攻めに遭ったり、勝手に記事にされてたり… ずーっと騒然としていて、周辺の第三者も心身ともにヘトヘトだったあの頃、

被害女性が大久保清の誘いに乗ったのはあまりにも尻軽すぎる!

…など、ガイシャと遺族への中傷報道が続いていた。

親族は身内を56された上に、赤の他人からの心ないバッシングがあとを絶たず、その心労は想像を絶するものだったという。

観光客の事件現場巡りとマスコミ報道の余波が墓を暴かせた

大久保清の墓

あの頃は群馬への観光客も増えて経済効果は上がったけれど、それは実は非常に胸糞悪いもので…

「大久保清の足跡をたどる」的な悪趣味な観光客が興味本位に事件現場巡りをしていたのだ。

今でいうところの「アニメの聖地巡礼」みたいなノリかな。

その手の観光客が激増し、あちこちで写真を撮ってはわあわあ騒がしいっつーか、不謹慎極まりない。

大久保清は県内で120人余の女性を誘ったり声をかけているが、そのうち25人は前橋市本町二丁目の群馬銀行本店前バス停留所で誘っている。 ここからまっすぐの道を500メートル歩くと、大久保が誘った女性に文学や絵の講義をした喫茶店「田園」(仮名・前橋市千代田町五丁目)がある。この道は前橋市の繁華街を横切り、通称××通りと言われているが、いつの間にか「大久保ストリート」と呼ばれ、最近は嫌な街角というわけか、通学・通勤の女性の通行がなくなった。 だが観光客にとっては絶好のプロムナード。 via:毎日新聞(昭和46年)

「観光客にとっては絶好のプロムナード(=散歩道)」 …って、地元民との温度差がありすぎ。

大久保清の墓

男性報道記者が街ゆく女性に声をかけて成功率を競い合うナンパゲーム…なんて、地元民を小馬鹿にした悪ふざけな報道もあった。

マスコミが先頭に立って煽るとか今の時代なら炎上騒ぎになるけど、当時のメディアはウケ狙いで こんなこと平然とやっていた。

つまり群馬県の女性を馬鹿にしてたわけだ。ナメトルネ…

こういう風潮に対する大久保家の近隣住民の憤りもかなりのもので、大久保清の刑が執行されたニュースが流れるやいなや、一夜にして大久保家代々の墓が暴かれる事態に。

大久保清の墓

ここに大久保清の遺骨を納められた日にゃ、新たな観光スポットになりかねない!

事件を1日も早く風化させたい地元住民の思いが、彼らを凶行に走らせた。

大久保清への憎悪が、最終的には「大久保一族への憎悪」にすり替えられたのだ。

さまよう遺骨…「もう納める場所がないんです」

大久保清の墓

先祖代々の墓に入れなくなった大久保清の遺骨は、最初は両親の分とともに高崎市の観音山霊園にあったらしいのだが、情報が洩れて、大久保清事件現場ツアーの新たな観光名所になって悪目立ちでもして追い出されたのか?

私にはその事情はわからないが、教誨師によると、大久保清の姉が

実姉 清も、高齢の両親も、もう遺骨を納める場所がないのです。
…と言って渡邉普相氏を訪ねてきたそうだ。

見かねた渡邉氏は大久保清の遺骨を引き取ることになり、現在雑司ヶ谷霊園の一角にある東京拘置所の共同墓地に眠っているという。

この共同墓地に落ち着くまで、刑執行から約10年間、大久保清のお骨は行く当てもなく さまよい続けていたことになる。

大久保清獄中手記「訣別の章」のてんやわんや

大久保清は大島英三郎氏(群馬県伊勢崎市在住のアナーキスト)を特別弁護人として文通していた。

大島氏は皇居の一般参賀で発煙筒を投げつけた人物。大久保清はほとんどの弁護士を信頼しなかったのだが、この大島氏だけには心を開いていた(晩年はある事情から大島氏とも絶交状態)

そんな大島氏の編集で、大久保清は獄中手記「訣別の章」を出版し「俺は立派に4んでみせる」…と、4を待つ身になっても自己顕示をやめなかった。

大久保清はかねてから知人への手紙に「長野県の梓川に散骨してほしい」と書いていて、それになぞらえた詩が訣別の章にある

父母よ!
私の骨と灰は あなたがたに お願いしました
その梓川の清き流れに 私の全部を託して、長い旅に出ます
そして何日かかるかわからねど きっと ナホトカの港までゆくでしょう

最近は墓じまいが激増していたり、はじめからお墓を持たずに手元供養を選ぶ人が多いから海洋散骨に人気が高まっているが、昭和はお墓に納めるのが当たり前だった。

そんな時代に大久保清本人が本気で散骨を望んでいたのかはわからないが、遺族は後始末が最後の最後まで大変だったようだ。



error:このコンテンツのコピーは禁止されています。