恩赦で減刑された死刑囚!福岡ヤミ商人殺人事件 石井健治郎と西武雄の明暗

恩赦 死刑囚 減刑 福岡事件

1975年6月17日の減刑恩赦

天皇陛下の退位を実現する特例法の成立を受けて、法務省が恩赦の実施の検討に入ったことがわかった。

法務省が恩赦を検討!天皇陛下の退位特例法を受けて


 
まだ検討の段階なので 恩赦が行われるかどうかなどは確定していない。

けれど 死刑確定囚にとって これは朗報に違いないと思う。

1945年から2005年までの60年間に恩赦で死刑から無期懲役に減刑された死刑確定囚はわずか25人。

25人の内訳は、政令恩赦が14人、個別恩赦が11人である。

政令恩赦は一定の基準を明確にして、その条件に当てはまる者に対して一律に恩赦を与える。

個別恩赦は国家的慶事でなく、常時 個別に恩赦出願を受けて中央更正保護審査会が審査を行い、恩赦の適否を決める。

恩赦

via:https://mainichi.jp/

 

たったの25人…「恩赦相当」とされるまでのハードルはかなり高い。

直近の死刑囚の恩赦は1975年6月17日の「福岡事件」である。

直近とはいっても42年も前のこと。

福岡事件の実行犯である石井健治郎元死刑囚は 減刑されて6月17日付で死刑囚から無期懲役囚となり、14年半服役後に73歳で仮釈放で出所している。

ところが同じ福岡事件で共犯だった主犯の西武雄元死刑囚は 恩赦が不相当と判断され、6月12日に死刑が執行されている。

同一の事件に手を染めていながら、その運命は真っ二つ…天国と地獄に分かれた。

主犯と実行犯ということで立場が違えど、二人は同じ「福岡ヤミ商人殺し」の共犯である。

この二人の明暗を分けたものは何だったのか!?
 
 
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福岡事件(福岡ヤミ商人殺人事件)

福岡事件(福岡ヤミ商人殺人事件)は戦後混乱期の1947年に、福岡市で起こった殺人事件。

その頃 定職がなかった西武雄(当時32歳)は、旧日本軍の軍服など、品物の取引に見せかけて、取引相手から金を騙し取る計画を立てた。

もし金を騙し取れない場合には取引相手を殺害して、金を強奪しようと考えていた。

そして、旧日本軍の拳銃を持っていたブローカーの石井健治郎(当時30歳)らを仲間に引き入れた。
 
 

1947年5月20日、西武雄らは日本人ブローカー(当時41歳)を介して、軍服1000着の架空取引話に乗ってきた中国人衣類商(当時40歳)らの中国人グループと取引をすることになった。

福岡市内の飲食店で、西武雄は軍服代金として約70万円のうちの10万円を、中国人衣類商から保証金として受け取る。

そして残金60万円あまりは現物と引き換えということになった。

西武雄の仲間が日本人ブローカーと中国人衣類商を取引現場へ誘い出し、そこで石井健治郎が2人に拳銃を発射し、他の仲間も加わって2人を刃物で切りつけて殺害した。

その後、西武雄、石井健治郎ら7名の犯行グループが、強盗殺人で逮捕された。

西武雄と石井健治郎は捜査段階で犯行を自白したが、裁判では否認した。

西武雄
死んだ日本人ブローカーに取引の立会いを頼まれただけで、強盗殺人の点では そんな事実はありません。
石井健治郎
強盗殺人をしたことはありません。
 
二人を殺したことに間違いはありませんが、これは皆と相談したり頼まれたりしてやったわけではなく、喧嘩の相手と誤認して、私が勝手に拳銃で殺したのです。
 
 

1948年2月、福岡地裁は強盗殺人として、主犯格の西武雄と二人を射殺した石井健治郎に死刑など、被告7人に有罪判決を下した。

石井健治郎の後日談
一審判決宣告後、裁判長は中国人傍聴者の一団に対し「2人を死刑にしたので、それで了承してくれ」と頼んでいた。

これに対して中国人傍聴者たちは「7人全員を死刑にせよ!」と騒いだという。
 
 
1951年4月、犯行グループの控訴に対し、福岡高裁は7人のうち1人を無罪にしたが、西武雄と石井健治郎は死刑のままとした。

西武雄と石井健治郎ら4人がこれを不服とし、直ちに上告した。

石井健治郎の弁護人
石井健治郎に対する強盗殺人は冤罪であり、単純な殺人としても故意が認められず、傷害致死の事案である。
 
仮に強盗殺人であるとしても、死刑は不当だ!
 
被害者の一人が連合国人(=中国人)であるということが、裁判所をして報復的に二人の死刑を言い渡させる動機となったことは、おおうことのできない事実である。
 
日本の独立も再び認められるにいたった今日、被告に対する死刑を執行することは、日本国家の立場において忍びない。

ところが最高裁は1956年4月に、この上告を棄却した。

これにより、西武雄と石井健治郎の死刑が確定したのである。
 
 
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教戒師が西武雄と石井健治郎を支援

死刑確定後に、西武雄と石井健治郎は再審請求をし、恩赦を願ったが、どちらもかなわなかった。

このときに福岡刑務所の教誨師だった真言宗僧侶・古川泰龍氏が2人の訴えに耳を傾けて、冤罪死刑囚救援運動に本格的に乗り出した。

古川市は上申書や助命嘆願書を法務省に送り、法務大臣にも会った。

1963年4月、古川氏は2人の冤罪を訴える分厚い真相究明書を書き上げた。

その頃 古川氏は福岡刑務署長から「この運動を続けるなら、教誨師をやめてほしい」といわれている。

この件は各方面で物議を醸すが、結局 古川氏は教誨師をやめる選択をする。

古川氏
もし、自分が無実の罪で死刑になるとしたら…と思っただけでもゾッとする

そして古川氏はその後も変わらず 二人を救出するための運動を続けた。

古川氏の尽力で西武雄と石井健治郎は1964年、改めて再審請求を申し立てるが、福岡高裁はこれを棄却した。

恩赦で占領下の死刑囚を救う試み

1968年4月に社会党・神近市子衆院議員ら8人が「死刑の確定判決を受けたものに対する再審の臨時特例に関する法律案」を国会に提出した。

この法案は、1945年から1952年にかけての占領下の裁判で死刑判決を受け、未執行の死刑囚の再審に関する法律である。

戦後混乱期の裁判は占領軍の政治的影響力などにより手続きの公正が保証されていたかが疑わしいことや、捜査当局の人権軽視や自白偏重の弊害が大きかったこと。

さらに物的証拠に欠く疑わしい事件の確定死刑囚の多くが無実を主張していることなどが法律案提出の理由となっている。

再審開始は針の穴を通るよりも難しいといわれていたので、再審の間口を広げ、再審を受けられる機会を得やすくしようという目的もあった。

この法案には多くの賛同が得られたのだが、政党与党(=自民党)の大多数が反対したので、成立は難しい情勢だった。

そんな中で「その代わり、恩赦で占領下の死刑囚を救おう」という声が上がったため、最終的に政治的な取引が成立。

法案成立を断念する代わりに、西郷吉之助法務大臣が衆議院法務委員会の席上で恩赦を約束することを確認した。
 
 
再審特例法案の対象者はそのとき大阪府2人、福岡県3人、宮城県2人と、全国に7人いた。

大阪拘置所には、財田川事件の谷口繁義、菅野村強盗殺人放火事件の山本宏子

福岡拘置所には、免田事件の免田栄、福岡事件の西武雄石井健治郎

仙台拘置支所には、帝銀事件の平沢貞通、強盗殺人の山崎小太郎。

これらの7名に対して恩赦の積極的運用に努力したいということになった。

恩赦一人目は山本宏子

1969年9月10日、大阪拘置所の山本宏子(当時54歳)に恩赦が適用された。

山本宏子は菅野村強盗殺人放火事件の審理において、1951年7月に死刑が確定していた。

山本宏子は病弱の夫と子供4人を抱えて生活に苦しみ、犯行に至ったという動機に同情すべき点があり、反省もしていた。

また1954年頃から精神病を患っていた。

これらの理由で、以前から法務省としては山本宏子を減刑恩赦したいと考えていたが、被害者遺族の反対が強く、恩赦が見送られていた経緯があった。

そのため今回あらためて 山本宏子を無期懲役に減刑する恩赦を行った。

恩赦二人目は山崎小太郎

1970年7月に強盗殺人で仙台拘置支所の山崎小太郎(当時76歳)が恩赦で無期懲役に減刑された。

山崎は1951年3月に死刑が確定していたが、病気のために執行が延ばされてきたという。
 
 

恩赦が積極的に進められたのは 山本宏子、山崎小太郎の2人だけで、後が続かなかった。

ちなみに、この再審特例法案の対象の7人のうち、いちばん注目されていたのは、帝銀事件の平沢貞通の恩赦である。

1969年の「恩赦の積極的運用」方針以後も平沢は恩赦を出願していたが、恩赦不相当とされて、平沢はとうとう減刑されることも執行されることもなく、95歳で獄死している。

さらに、財田川事件の谷口繁義と、免田事件の免田栄は、恩赦を受けることなく、再審で無罪を勝ち取っている。

福岡事件の西武雄と石井健治郎は「恩赦の積極的運用」の合意を受けて、改めて恩赦を請求していたが、法務省内では意見の対立があったようで、なかなかことが進まなかった。
 
 
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5年後に恩赦と執行が同時決定。

山崎小太郎の恩赦から5年後の1975年6月になって、西武雄と石井健治郎の恩赦を審査していた中央更正保護審査会はようやく決定を下すこととなった。
 

石井健治郎は恩赦相当

福岡事件の実行犯・石井健治郎は恩赦相当として、1975年6月17日、内閣が死刑から無期懲役への減刑を正式に了承した。

石井健治郎はその後、無期懲役囚として約14年半服役し、1989年12月に73歳で仮釈放され、教誨師の古川氏の家に引き取られた。
 
 

西武雄は恩赦不相当

福岡事件の主犯格・西武雄に対しては恩赦不相当とされた。

なぜ二人の明暗がこんなにはっきりと分かれたのか?

当時の報道によると
西武雄は主犯格だが、石井健治郎は他の共犯者との刑の均衡上、死刑は重過ぎる。
 
また仏教に帰依しているので、更正が期待される

確かに福岡事件の石井健治郎以外の5人の共犯者たちは、一番刑が重い者で懲役15年とされていた。

審査会が 西武雄に対する恩赦不相当の結論を出したのが6月6日。

そして法相が西武雄の死刑執行命令を下したのが6月12日。

その後、西武雄の健康状態などの確認がされた後、6月17日に死刑が執行された。

6月17日、西武雄はいつものように運動に出て、独房に帰ったのが午前10時だった。

そして10時15分に看守が迎えに来た。

西武雄
あっ、恩赦、決まりましたか。

喜んで立ち上がった西武雄は、恩赦不相当の決定と、死刑執行を同時に告げられ、10時30分頃に処刑された。

遺書を書く時間もなかったという。

享年60歳。

 

1975年以降の死刑囚の恩赦

1975年の石井健治郎の恩赦以降、死刑囚の恩赦が注目され 噂されたのは1988年、昭和天皇の病気が国民的関心になっていた頃のこと。

なぜなら恩赦は、国家的慶事のときに、政令恩赦が多く行われてきたからである。

もちろん恩赦の噂が死刑囚の間を駆け巡ることは言うまでもない。

このときには結果的に恩赦は行われなかったのだが、恩赦を期待して控訴や上告を取り下げて死刑を確定させた死刑囚が4人いた。

1988年10月に夕張保険金目当て放火殺人事件の日高安政日高信子は控訴を取り下げて死刑が確定。

夕張保険金放火殺人事件 (日高安政・日高信子)

銀座ママ殺人事件の平田光成、元昭石重役一家殺人事件の今井義人は上告を取り下げて死刑が確定している。

恩赦を受けるには刑が確定していなければいけないというので、彼らは控訴や上告を取り下げてわざわざ早々に死刑を確定させたのだが、恩赦は行われず、この4人の死刑は数年後に執行されている。
 
 
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医師ら生き埋め殺人事件 高橋義博