滋賀銀行9億円横領事件!1300回男に貢いだ奥村彰子(おくむらあやこ)

奥村彰子 滋賀銀行9億円横領事件 山県元次

奥村彰子と山県元次の出会い

1965年(昭和40年)春、滋賀銀行・京都支店に勤める奥村彰子(おくむらあやこ)は、京都四条大橋の近くでタクシーをとめた。

彼女はその日、男友達とけんかをしてむしゃくしゃしていた。

タクシー運転手
京都へ出てきて日が浅くて地理がわからないんです。
 
助手席に乗って教えてくれませんか。

男に妙な下心があるようには見受けられず、むしゃくしゃしていたこともあり、奥村彰子は促されるように助手席に乗った。

男は優しく、礼儀正しかった。

しばし楽しい時間をすごした後、奥村彰子は誤って運転日報を自分の荷物と一緒に持ち帰ってしまったことに気づいた。

翌日、タクシー会社にこれを送り返したが、このときにはまだ男の名前すら知らなかった。

後に奥村彰子はこのときの男の印象をこう話している。

奥村彰子
濃い髪やきれいな襟足で関西訛りのない話し方をする、好感をもてるタイプだった。
 
 

奥村彰子がその男に再会したのは、約1年後の昭和41年5月。

奥村彰子は転勤を命じられて、滋賀銀行・山科支店勤務になっていた。

勤めを終えて京都行きのバスに乗り込んだ奥村彰子に、見覚えのある男が声をかけた。

山県元次
あのときの人ではありませんか?

運命的な偶然の再会に、婚期を逸して毎日にむなしさを感じていた35歳の女の胸はときめいてしまった。

男に誘われるままに喫茶店に行き、自己紹介しあうことになったことが、奥村彰子の運命を大きく変えてしまった。
 
 
男は山県元次と名乗った。

年齢は奥村彰子より10歳年下の、当時25歳。

落ち着いた柔らかな物腰で丁寧で嫌味のない話し方は、女性を惹きつけるのに十分な魅力だった。

山県元次はドラマチックな恋の予感を感じさせるような、くさいセリフを吐いた。

山県元次
あの節は本当にありがとう。
 
心のやさしいご親切な方だと、今でも時々、あなたのことを思い出すのですよ。

奥村彰子は自分のことに強い印象で覚えていたことをうれしく思い、山県元次に警戒心を持つことを忘れてしまった。

これが大事件の幕開けだったとも知らずに。
 
 
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山県元次の生い立ち

山県元次は1940年(昭和15年)4月3日、警察官をしていた父親の赴任先である朝鮮京城府で生まれた。

兄弟姉妹5人の五男である。

終戦後、山県一家は本籍地の下関市に引き揚げ、元次は昭和30年に市内の中学を卒業した。

この頃から山県元次の見栄っ張りな性格が現れ始め、教師からはもとても無理だからと言われていた地元の名門校を受験し、失敗している。

ふさぎこんでいた息子を見るに見かねた父親は、元次をガラス店に勤めさせ、元次は1年後に定時制高校に進んだ。

しばらくの間、山県元次は昼間は店員、夜は学校という二束のわらじのまじめな生活を続けたいたが、次第に学校をさぼるようになっていき、派手な服装、女遊び、競艇場への出入りが始まった。

山県元次は若いうちからギャンブルの甘い罠にとらわれるようになった。

もっと目立ちたい、もっと多くの金を使いたいという虚栄心から、山県元次は高校を中退し、無理をして「山県陶器店」を開業。

このときに周囲の人たちは山県元次に惜しみなく協力したという。

山県元次はギャンブルと女狂いのやさ男だが、その如才なさは 人に「憎めない」印象を与えていたのかもしれない。

実際、そんなところに奥村彰子も惹かれている・・・山県の虚言癖、優柔不断さ、才能の伴わない現実離れした夢想家といったマイナス要素をとことん見せつけられながらも、「どこか憎めない」ことから、ずるずると深みにはまっていった。

山県陶器店を始めてからの山県元次は、それまで以上に金を競艇につぎ込んでいったので、店は開店4ヶ月で閉店。

その後山県元次は、やむなく自分の車を使って白タクをはじめる。

狙う客は競艇通いをする人たちだけ。

その度に山県元次は全ての有り金をボートにはたいていた。

その後、下関での白タク取締りが厳しくなってきて、営業が難しくなった。

そこで兄を頼って京都に行き、タクシーの運転手をはじめたところ、今度は琵琶湖競艇にはまり、タクシーの水揚げ金を横領するなどしてクビになり、何度も会社を替えている。

食い詰めても切り詰めても競艇だけはやめられない生活が、京都に来た山県元次の中に完全に定着していた。

奥村彰子が山県元次に偶然会ったときも、山形は競艇場から帰るところで、喫茶店では、山県元次は奥村彰子に競艇の話をしている。

奥村彰子はそこで自分が銀行員であることを山県に明かし「預金しませんか」と誘っている。

預金勧誘はこのまま山県元次と会うための、自然な口実にもなった。

山県元次には預金などする意思がないどころか、預金できるまとまった金もないが「ごっそり儲かることも多いので金がたまっているからそのうちぜひ」と大見栄をきった。

数日後、奥村彰子は山県元次に電話し、預金パンフレットを渡すために会った。
 
 
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奥村彰子の生い立ち

奥村彰子は1930年(昭和5年)12月4日に大坂で生まれた。

1948年に京都市立堀川高等女学校(旧制)を卒業し、滋賀銀行に入行。

それ以来、山県元次に出会うまでの17年間、一貫して預金係を担当していた。

結婚しないままひとつの職場に18年間・・・お局様…といった意地の悪い見方をされていたにせよ、長いキャリアは奥村彰子を「信頼のおける預金係の大ベテラン」に育てていた。

だから、山県元次に言われるままに銀行の金に手をつけても、誰も彼女を疑うことはなかった。

それどころか、横領事件が発覚した1973年には、奥村彰子は事務決裁者としてポスト昇格している。

上司は奥村彰子を「決してミスをしない有能な部下」として100パーセントの信頼を置いていた。

奥村彰子が育った家庭は母親と独身の姉が一人。

父親は彼女が幼い頃に、女を作って逃げていた。

それ以来、奥村彰子は姉ともども母親に「男は信用できない」といわれながら育った。

そのせいか、奥村彰子は解放的な気分で男性と付き合うことができず、慎重すぎるほど考えて、相手を値踏みする傾向が強かった。

しかし、女ばかりのクリスチャン家庭によくあるように、男を遠ざける徹底した男性排斥主義だったわけではなく、それまでにもそれなりの男性経験はあったのだが、どこか醒めた目で相手を見ているため、35歳まで独身のままという感じだったという。

おそらく彼女は自分自身をかなり抑圧してきたのかもしれない。

だから山県元次との「運命的な」出会いに酔って、慎重派だった奥村彰子が操り人形のように動かされていったのは、35年間の抑圧が一挙に爆発した可能性もある。

奥村彰子が山県元次に預金パンフレットを渡すために会って以来、2人の仲は急速に親しくなっていった。

はじめのうちはデート費用をすべて山県が出していたが、5回目くらいから奥村が出すようになった。

この段階では、山県元次には、奥村彰子をそそのかして公金横領させようという意思はなく、せいぜいボート遊びの金を女からせしめようという程度のものだった。

奥村彰子は山県元次から金を無心されるたびに

奥村彰子
貸すだけよ

・・・と念を押していたが、デートのたびに5000円、1万円と 山県に渡していった。

山県元次
競艇で勝ったら返すよ

・・・と山県は言っていたが、彼には一銭も返そうとする気配がない。

奥村彰子はノートに貸した金額をメモして、いずれ機会があったら山県に請求できるように準備はしていた。

そのうちに二人が男女の仲になると、山県は「車が欲しいな」と言い出した。

奥村彰子には二人で楽しむことだったら、いくらでも金を使ってもいいという気持ちがあり、15万円だして中古のコロナを買った。

ただ、車でデートすることによって行動半径が広がった分、その後の出費も多くなっていった。

奥村彰子の預金はみるみるうちに底をついていき、金策に苦労した彼女は、母や姉の預金からもいくらか引き出して使うようになった。

「この男と別れたくない」という想いが、奥村彰子の金銭感覚を麻痺させていた。

奥村彰子
やっぱりお金のために私と付き合っているのね

・・・と奥村がなじると、山県はきっぱりと否定した。

山県元次
そんなことは絶対にない。本当に好きなんだ。信じてくれ。
 
 
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横領

そしてその年の冬、奥村彰子ははじめて顧客の金に手をつけた。

顧客Aは60代男性の定年退職者で、バス停で知り合ったのをきっかけに奥村彰子に近づいてきた。

Aは退職金の一部の100万円を奥村彰子に預けて、定期預金にするように依頼した。

そのときAは奥村彰子に預金証書と印鑑を渡しっぱなしにして、奥村を前面信用していた。
 
 
山県元次と奥村彰子が琵琶湖畔にドライブに行ったとき、山県は途中の中古車センターの前で車を停めた。

そこにあった日産フェアレディが山県の興味を惹いたのだ。

試乗した後に山県は奥村に言った。

山県元次
いいだろう。買うことにしたよ。
 
Aの金を回して欲しい。とりあえず40万。な、頼む。
 
何とかしてくれないか。必ず返すし。

そのときの奥村彰子の元には車を買う金など残っていない。

Aの定期預金の満期日は半年先だから、それまでに何らかの形で埋め合わせをしておけば、横領が発覚せずにすむ。

はじめは他人の金に手をつけるなんて・・・と思っていた奥村彰子だったが「半年のうちに何とかすれば…」と彼女の中の悪魔がささやいた。

それに今度は小金ではなく40万円という大金だから、いくら山県でも返済してくれるだろう・・・という甘い考えが奥村には浮かんだ。

1966年11月7日、奥村彰子はAから預かっていた証書と印鑑を使って中途解約を頼まれたように見せかけて払い戻しの手続きをした。

そして元金100万円と利息360円が奥村の手に入った。

うち40万円をその日のうちに山県に渡した。

山県元次は残りの60万円も「借金返済のための競艇資金にするから」といって奥村彰子から少しずつせびり取っていった。

結局全額きれいさっぱり使い果たしてしまい、返済どころではない。

Aに気づかれないための工作が必要となった奥村彰子は、A宅を再三訪れ、新たな預金を依頼していた。

預金を増やしておけば、少なくとも横領の発覚を遅らせることができるという算段だ。

奥村彰子を信用しきっていたAは快く奥村の頼みを聞いてやり、別の100万円を2回に分けて定期預金にした。

それと引き換えにAは奥村彰子をホテルに誘った。

「いやでいやでたまらなかった」奥村だったが、Aを怒らせて預金を解約されては全てがばれてしまうと割り切って、Aの誘いにしぶしぶ応じていた。

このことは山県も知っていて、これに対してはさすがにムッとしたが、奥村彰子にAと手を切れとは言わなかった。

Aという好色漢も奥村彰子も、山県元次にとっては同じ金づるだったからだ。
 
 
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暴走と脅迫と

1967年(昭和42年)になってから、Aは奥村彰子に、立て続けに100万近い単位で小切手を預けた。

Aと男女関係になってからの奥村彰子は横領がばれる恐れが少なくなったとして 自分の裏口座を作り、Aから預かった小切手を堂々と裏口座に振り込んでいる。

山県元次はそれをいいことにして、奥村への金の無心をエスカレートさせた。

20万、30万・・・がどんどん競艇代に消えていった。

山県元次は京都と下関の競艇場を往復してボートを楽しんでいたので、その交通費もかなりかかっていたが、奥村彰子が横流ししてくれる金を使って 山県は下関ではB子という女性と同棲生活をしていた。

そして山県元次はB子と1970年5月に事実上の結婚をしていた。

この事実も、山県元次に別の女がいたことも、奥村彰子は逮捕されるまで知らなかった。

退職金を小出しして預金しながら、滋賀銀行・定期預金係の女との関係を楽しんでいたAは、さすがに金が底をついたのか、夏頃から連絡が途絶えがちになっていた。
 
 
1968年の正月、奥村彰子は山県元次の一言に耳を疑った。

山県元次
どうしても20万円、都合して欲しい。
 
銀行の金を何とかできないか?

このとき奥村彰子はAの定期預金を670万円無断で引き出していたが、670万円を返済する見通しは山県元次にはない。

それなのに今度は銀行の金に手をつけろと山県は言う。

奥村彰子
そんなことをしたら大変なことになる。バレたらクビになる。

翌日、山県元次は電話は再び奥村彰子に迫った。

山県元次
昨日の話、何とかならんか。
 
 

奥村は山県に何度か「結婚しましょう」と言ってきたが、山県からは「結婚してもいいが、今だって結婚しているも同然じゃないか。こんなに頻繁に会ってるんだから」といなされ続けてきた奥村にとっては、これが自分の価値を売り込むチャンスのように思えたのかもしれない。

男を喜ばせる道しかないと思っていた奥村彰子は決心した・・・架空の預金証書を偽造して定期預金を中途解約したように見せかけ横領することを。

上司の絶大な信用を得ている預金係の奥村なら、それができた。

奥村彰子の横領作業の中でいちばん神経を遣ったのが 役責印鑑の転写だった。

偽の預金証書を偽造しても、役責の印鑑がもらえないと金を引き出せない。

そこで彼女は書類に押された印影の上に油紙を乗せ、上から鉛筆などでこすって印影を写し取る方法をとった。

写し取った油紙を偽造した預金証書にのせて再びこすると、肉眼でも偽造の区別がつかない。

明かりに透かすとロウが光るのでばれてしまうが、そこまで疑ってかかる者はいなかった。

この方法で奥村彰子は、事件発覚までに904通の偽造証書を作成し、引き出した金を山県元次に貢いだ。

やり方は単純そのものだったが、驚くべきは銀行内でこれほどの大掛かりな偽造が行われていたのを、誰も気づかず、不信感を抱くことがなく、銀行の管理体制のずさんさがあらわになった。
 
 
奥村彰子の犯行は次第に大胆になっていった。

それは山県元次が奥村を脅迫したからだ。

奥村彰子が「もうこんなことはやめたい」と言うと

山県元次
一回やれば何回やっても同じだろう。
 
あんたがここでおりるというなら、支店長に手紙を出す方法だってあるんだよ。

普通、こんな脅され方をしたら「自分との関係は100% 金目当て」だとわかり、100年の恋も一気に冷めるはず。

ところが奥村彰子はそうはならなかった。

恋愛関係の相手から脅迫されても相手の愛情に疑問を持たない奥村彰子の山県元次へのめりこみ方は半端ではなかったのだ。

山県元次は奥村彰子に現金書留の封筒を多数渡して、それを使って送金するように命じた。

しばらく下関で競艇をするから、銀行の金を現金封筒で送れというのだ。

結局それは下関のB子と贅沢をするための金であったのだが、何も知らない奥村は危険を冒して金を横領し、その都度不実な男に貢ぎ続けた。

奥村の着服金額はどんどんエスカレートしていった。

1969年頃は1回につき50万円。

1970年になると80~100万円。

1971年末にはいったいどれだけの額を着服したのか、奥村自身にもわからなくなっていた。

1回の着服額も多いときで300万円、しかも一日に数回繰り返すという大胆さだった。

奥村彰子は自分のための架空名義口座を複数つくり、着服した金の一部をそれらの口座にプールしておいた。

そうしておけば表向きは、奥村が新規預金者を獲得して銀行に貢献したことになり、周囲の目をそらしておけるからだ。

自由に正当に出し入れできる口座を持っていれば、中途解約者が現れたときにとっさにそこから金を流せる利点もあった。
  
 

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山県元次の豪遊

一方、山県元次は京都で奥村彰子が検査を切り抜けていることに安堵しながら、下関で優雅な生活を送っていた。

山県は3200万円で地元の有力者から豪邸を購入し、入籍したB子とその間にできた子供、実弟、義弟、それぞれの家族、合計11人を呼び寄せていた。

年老いた両親には庭付き新築住宅を買い与えた。

母親にはダイヤの指輪をプレゼントした。

自宅には総額500万円相当の家具を並べ、十二畳敷きの岩風呂、セントラルヒーティング完備。

庭には6隻のモーターボートと車を三台保有した。

高価なメロンや牛肉、寿司が連日配達され、1ヶ月の水道料金が当時で3万円。

近所では「山県御殿」と呼ばれてもっぱらの評判だったという。

また山県元次は京都に滞在中も連日、高級クラブに顔を出し、女性たちに1万円札をばら撒いていたそうだ。

人々に金をばら撒いて大尽風をふかすのが山県の少年時代からの夢で、床屋に行けば床屋の子供に1万円、寿司屋に行けば高価なものばかり注文してチップを1万円…。

山県の家族や兄弟姉妹は元次の恩恵にあずかって暮らしていたが、その金は彼が競艇でぼろもうけしたものだと信じて疑わなかったという。

山県逮捕の後、捜査員は一族も共犯関係にあったのではないかといぶかったが、家族共犯の線は立証されなかった。
 
 

最悪の日の先延ばし

奥村彰子が恐れたのは滋賀銀行の本店検査だった。

本店の役職たちが抜き打ちで、銀行内で不正が働かれていないかを調査する本店検査は、いつ行われるかわからない。

だから奥村は、本店調査の実施日の連絡を受ける上司の電話対応振りを盗み見ては いつごろになるかの見当をつけていた。

ただし見当をつけられても、正確なところまでは奥村にはわからない。

そのため検査が実施されそうな空気を読んだとき、奥村彰子は何を差し置いても不正工作が発覚されないような工作をしなければならなくなった。

1回目の一般検査は1968年7月22日だったが、奥村は偽造証書の名義人の名を誤って書いたのに気づき、ホテルで山県と落ち合い、彼にも協力させて元票偽造の工作をした。

2回目の一般検査は1969年11月20日から。

定期預金の検査が集中的に行われると気づいた奥村は11/20の夜、ホテルで夜半までかかって預金証書を偽造した。

その様子を山県はそばで見ていた。

1971年1月18日からは特別検査が実施された。

特別検査は一般検査よりも徹底的に調べられるので、奥村にとっては地獄の鬼火を見るような経験だったが、このときも検査は無事に切り抜けることができた。

犯行の後始末や本店検査に備えた準備で、奥村彰子は多忙を極めており、残業だけでなく日曜出勤もしばしばあった。

そんな奥村の仕事に対する妙な執着の仕方を見ても誰も疑う者はおらず、ベテラン預金係が顧客をどんどん増やして仕事量がかさんでいると思われていた。

そんな仕事熱心な奥村彰子に対して、同僚は尊敬のまなざしを注ぎ、上司からは激励と賞賛の声が送られた。

奥村彰子はいつ犯行がばれるかという怖れを持ち続けながら平静を装い、大きすぎる秘密をたった一人で抱えて、逮捕されるまでの5年間を耐え抜いていた。

犯行が度重なるごとに、奥村彰子は銀行で一時も席を外せなくなっていた。

1969年からは週休二日制が実施されたが、このときも彼女は同僚に「私の顧客が来ても記帳したりしないでね」と念を押して休みを取っていたというが、それでも不安で、休日らしい休日はなかったと言っている。

いずれ終わりがやってくることがわかりきった賭けに出た女にとって、今できることは、最悪の日を先へ先へと延ばすことだけだった。
 
 
本店検査を数年にわたって切り抜けてきた奥村彰子がいちばん恐れていたのは配属転換と転勤の辞令が降りることだった。

山科支店の預金係という立場にいることさえできれば、何とかごまかして発覚を遅らせることができる。

当時は高度成長に呼応するように土地ブームが蔓延し、預金者数は増える一方であり、普通なら不自然な金の動きが、土地ブームという特殊な状況により おかしいとは思われなくなっていた。

奥村彰子は1973年でまる8年、滋賀銀行・山科支店に勤務していたから、本人もそろそろ転勤か配属転換の辞令がくるのではないかと不安に思っていた。

大ベテランの奥村には配属転換の可能性は低かったが、転勤で他の支店にまわされたら、横領が発覚することは目に見えている。

その不安を山県元次の前で口にすると、山県はこう言って、奥村彰子を安堵させたという。

山県元次
ばれたら二人で車に乗って、海に飛び込んで死のう。
 
 
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転勤と事件発覚

1973年2月1日、奥村彰子に滋賀銀行・東山支店への転勤辞令が出された。

事務決裁者としてのポストを与えられた上での異動であり、栄転でもあった。

奥村彰子は腹を決めた・・・こうなれば、約束どおり山県元次と心中するしかない。

財務処理と称して奥村は犯行に使ったメモ類や多数の三文判を焼却し、川に投げ込んで捨てた。

そして2月6日の東山支店へ初出勤するまでの5日間に、最後の公金騙し取りを行った。

このときに不正に引き出した1100万円は、驚いたことに奥村彰子に関係を迫った顧客のAの銀行口座へ振り込まれていた。

ところが皮肉なことに、この不正工作が引き金となって、事件が発覚した。

東山支店に行ってから2日後、奥村彰子は山科支店から呼び出しを受けた。

どうも不明な点があるので説明して欲しいということだった。

奥村彰子は下関に行っていた山県元次に電話した。

奥村彰子
ばれたみたい。もうどうにもならないから、一緒に死んで欲しい

山県元次は奥村彰子に「ブロバリン」を大量に買っておけと指示した。

2月8日夜、二人は京都市内のホテルで落ち合った。

奥村は数件の薬局を回ってかき集めたブロバリン200錠を山県に突きつけ、心中を迫った。

だが山県にははじめから心中する意思などなく、勝手な弁明を始めた。

山県元次
俺には面倒を見てやらなくちゃいけない家族がたくさんいる。
 
やっぱり死ぬことはできない。
 
 

逃亡・逮捕・判決

2月13日、奥村彰子に山科支店から強い姿勢で出頭するように要請があった。

いたたまれなくなった奥村は飛行機で下関に飛び、山県に再度一緒に死んでくれるよう、かくまってくれるように哀願したが、拒否される。

仕方なく京都に帰った奥村は、母親から山科支店の人が尋ねてきた旨を知らされ、このとき逃亡の決意を固めた。
 
 

2月18日、銀行は滋賀県警に捜査を依頼した。

2月19日、被害額が億単位であることが判明。

2月21日、滋賀銀行は奥村彰子を告訴し、逮捕状が出され、全国指名手配された。
 
 
奥村彰子の逃亡時の所持金は70万円だった。

当座の生活費として持っていた220万円のうち150万円と指輪などの貴金属類は、下関で山県元次に取り上げられていた。

奥村彰子の逃亡先は大坂だった。

山県にかくまってくれと懇願したとき「九州へ来て関西弁じゃ怪しまれる。逃げるなら関西方面がいい」と言われたからだ。

奥村彰子は大坂の京橋にある「宝荘」というアパートに居を定め「入江よし子」の偽名で入居した。
 
 
2月26日、奥村はアパートの保証金7万円と1か月分の家賃8000円を支払ったものの、家財道具はひとつもなかった。

大坂方面に潜伏中、顔を変えるために隆鼻手術を受けたり髪を染めたりしたことに所持金のあらかたを使い果たしてしまっていたのだ。

家賃を払った後は布団一枚を買う金も持っておらず、何か事情があると察した管理人が布団を貸してくれて食事の世話までしてやっていた。
 
 
2月27日から奥村はアパートの近くの大衆割烹「まつい」で 時給250円の皿洗いの仕事についた。

月給制だったところを「生活が苦しいので」と頼み込んで週休制にしてもらっていた。

店の評判はよく、賃金以上の仕事量をこなし、欠勤を一切せず、無駄なおしゃべりもしないので、店の主人からしたら「いい人を雇った」という気持ちだったかもしれない。

しかし奥村は2ヵ月後に「まつい」を辞めた。

そしてそれとほぼ同時に Cという建設会社社員の40歳の男と宝荘で同棲生活を始めた。
 

1973年10月15日、山県元次が逮捕された。

奥村彰子から奪い取った指輪を質入れしたことで身元が割れたのだ。 
 
 
10月21日、下関で逮捕されていた山県元次が奥村彰子の逃亡先を係官にもらしたので、午後3時、3人の刑事が宝荘へ踏み込んだ。

「奥村彰子さんですね」と刑事が訊くと、彼女は少し驚いたような顔をしたがすぐにうなずいて「そうです」と答えた。

奥村彰子は42歳になっていた。
 
 
奥村彰子が滋賀銀行から横領した金は、8億9400万円にものぼった。

未決拘留のまま3年がすぎ、奥村彰子と山県元次に大津地裁の判決が下りたのは、1976年(昭和51年)6月29日だった。

奥村彰子には懲役8年、山県元次には懲役10年の実刑判決が下った。

業務上横領の処罪は最高懲役が10年だが、山県はその最高懲役を課されたわけだが、奥村には情状酌量がなされた。

情状酌量の理由は、銀行側の管理にも大いに責任が求められる事件であったこと。

そして、奥村彰子が著しく反省をし、逮捕後に小額ながら財産を投げ打って被害弁償に務めたことがあげられている。

奥村彰子には1000万円、山県元次には3000万円が 銀行への賠償として命ぜられた。
 
 
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