稀代の殺人鬼 大久保清の生い立ち【大久保清誘拐連続殺人事件】

大久保清 生い立ち

大久保 清は、日本の連続殺人犯。
1971年3月から5月までの2か月足らずの間に、路上で自家用車から声をかけて誘った女性8人を相次いで殺害し、逮捕された。
1973年に死刑判決を受け、1976年1月22日に刑が執行された。
via:wikipedia

大久保清 誕生~中学

大久保清は昭和10年1月17日、群馬県高崎市(当時は碓氷郡八幡村)で 国鉄職員の父とロシア人ハーフの母の元、8人兄弟(三男五女)の三男として生まれた。

大久保清の父親・善次郎(仮名)は長らく国鉄の機関士を務めていたが、非常に女癖が悪く、愛人に子供を産ませたり、次男の前妻・後妻にも手を出すような男だった。

大久保清の母親・キヌ(仮名)はロシア人のハーフだったが、性格は自己中心的で欲深く、嘘をつく癖があった。

ロシア人のクオーターだった大久保清は、子どもの頃の彼は色白で目鼻立ちがはっきりしており、少し赤みを帯びた髪に瞳はわずかに青みがかっていた。

8人兄弟達は一様に、母の血を引いたエキゾチックな顔立ちをしていたという。

大久保家には三人の男児がいたが、長男は生後間もなく亡くなっている。

次男は無口で愛想がないことからあまり可愛がられることがなかったが、三男の清は「ボクちゃん」「キョッちゃん」と愛称で呼ばれて、下に妹が生まれても 両親から溺愛され続けることは変わらなかったそうだ。

大久保清が小学一年生になった年、太平洋戦争が勃発した。

欧米的なものが締め出される風潮になり、大久保清のエキゾチックな風貌に「アイノコ」という蔑みの言葉がぶつけられ、「アメリカ人そっくりだ」といじめられた。

大久保清が小2か小3の頃、近所の人が大久保宅へ苦情を持ち込んだ。

その家には柿の木が何本かあるが、清がその実を叩き落とすので困ると。

その時 キヌは息子の行為を詫びるどころか、こう言い放った。

キヌ
そんな所に柿の木を植えておくのが悪いんじゃないの!

大久保清のいたずらが目立ちだしたのはこの頃からで、学校の成績も芳しくなくなかった。

小6の夏、大久保清は近所に住む3~4歳の女児にいたずらをしようとして、近所の人に見つかっている。

担任教師
大久保清は学習意欲なく、常に落ち着きなし。学業を嫌い、ほとんど考えようとしない。ときどき大それたことをする。早熟なり。

この「大それたこと」が前述のいたずらのことだが、被害者の親から大久保清の母親が厳重な抗議を受けたとき、キヌは息子のアリバイの嘘までついた。

キヌ
ボクちゃんがそんなことをするはずがあるもんか。その時間にボクちゃんは私と一緒にいたんだから

それでも被害者の女児が「ボクちゃんにやられた」と名指しで主張すると

キヌ
子どものお医者さんごっこに目くじらを立てることはない

親がそんなだったから、当の子どもが反省するはずもない。

大久保清はこれに懲りずに、その後も似たようなことを三度繰り返し、地元の要注意少年となった。

その年の9月に小平事件(7人の女性強姦殺人事件)が起こった。

当時 村人の間では大久保清のことを「ちび小平」「小平の息子」「八幡村の小平」などと呼んでいた。

そんな冗談を言っている村人たちも、後にボクちゃんがそれをしのぐ性犯罪者になるとは、夢にも思っていなかっただろう。

大久保清の小5~6の担任教師
彼は勉強が嫌いでした。授業を途中で放棄して逃げ帰ったこともあったんです。宿題はやってこないし、覚えようとする努力もしない子でした。

その反面、自分の欲求とか目立つための感情を表現することには熱心で饒舌で、弱い者には横暴で乱暴で、強い者には何を言われても従う子どもでした。

母親が甘やかし過ぎたのか。学校内で大久保清が転んで擦り傷でも作ろうものなら、母親がえらい剣幕で押しかけてきましたからね

そんな大久保清も自分の欲求を満たすために、狙った女子高生や短大生らと 文学、美術、語学などで互角以上に語り合えるだけの知識を身に着ける努力はしていたのだ。

そしてロシア語やフランス語、イラストなどが書き込まれたノートを、悪魔の小道具として愛車に積んでいた。
 
 
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大久保清 中学卒業~18歳

中学を卒業した大久保清は、高校へ進学せずに家の農作業を手伝っていた。

とはいえ本気で働いていたわけではなく、気が向いたときにちょっと手を出す程度だった。

ただ、キヌにとっては清が終日家にいることがうれしく、前にもましてボクちゃんをかわいがっていたので、末娘が激しくひがむほどだったという。

その2年後に大久保清は、本人の希望ではなく、父・兄・姉たちの強制的なすすめに従って 県立高崎商業高校の定時制に入学した。

ところが元々が学校嫌いで、まったく勉強もせず、さぼれるだけさぼり、結局半年で高校を退学している。

退学して間もなく、大久保清は上京し、板橋区の電機店に住み込みで働き始めた。

表向き「仕事に打ち込む」姿とは裏腹に、夜になると大久保は近所の銭湯に出かけて、女風呂を覗いていた。

大久保清の女湯のぞきは半年で2回ほど現場が見つかり、2回目には逃げそこなって捕まり、電機店の主人に通報され、店をクビになっている。

その後も大久保清は電機の仕事をやりたいというので、二番目の姉が彼を引き受けることにした。

横浜の電気器具店に嫁いでいた姉は夫にそれを打ち明けると、義兄は清を一人前の電気技術者に仕上げてみせると言ってくれた。

そして義兄は大久保清に基礎から勉強させようと、神田の電機学校に通わせることにした。

学校嫌いの大久保清だったが、好きな道は別で、電機学校には真面目に通い、郷里にこんな手紙を送った。

大久保清
テレビは現代科学最先端を行くものだから これを学ぶことは難しい。高価な専門技術書を買わねばならず、日本にはないアメリカの部品を買ったり、実験もやらなければならない。

お金がかかるが、これを義兄におんぶするわけにはいかないので、お金を送ってください。その代り立派なテレビ技術者になって帰ります。

たぶん群馬県ではぼくにかなう者はいないでしょう。

大久保清は学校の成績は悪かったが、口がうまいことでは定評があり、人を騙すことに長けていた。

この手紙を真に受けたキヌは、へそくりをはたいて清に送金した。

大久保清がこの金で専門書やアメリカ製の部品を買ったことは確かだが、それはほんの一部にすぎず、横浜に出た18歳の大久保清は、その金のほとんどを女に注ぎ込んだ。

そして一人の女とトラブルを起こしたのが元で、早々に郷里に逃げ帰ってしまった。
 
 
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大久保清 18歳~20歳

 

昭和28年4月、大久保清は父親に資金を出してもらって「清光電機商会」を開業した。

これはラジオとテレビの修理をする会社である。

とはいっても、電機の修行を途中で放棄して群馬に逃げ帰ってきた大久保ができるのはラジオ修理がやっと。

テレビなどがいじれるはずがなかったが、近所の人はそんなことは知らないから、東京から錦を飾って帰郷した技術者ボクちゃんを信頼して、はじめは周囲から仕事がどんどん舞い込んだ。

ところが開店して間もなくケチがつき、客とトラブったため、清光商会の評判はがた落ちとなり 客足が遠のき、閑古鳥が鳴く悪循環に陥った。

そうなると たまに修理の依頼が来ても部品が買えない。

そこで大久保清は高崎市の同業者のラジオ店から部品の万引きを始めるのである。

大久保清はこのラジオ店から8回万引きした。

真空管やトランスなど高価なものばかりを盗み、自分の仕事に使っていた。

このラジオ店は市内最大の品ぞろえだったので、しばらく部品が盗まれたことに気付かなかったが、年末に棚卸をしてそれに気づいた。

でも、誰の仕業かはわからないので、これからはみんなでしっかり監視しようということになっていた。

そんなこととは知らない大久保清が再びその店にやってきた。

そして真空管を万引きしたところを 監視していた複数の店員に目撃されて捕まってしまう。

この件は父親が損害を賠償して示談となったので警察記録には「不処分」とされているが、悪い噂はたちまち知れ渡り、大久保はラジオ商として営業できなくなり、清光商会は倒産した。

ところが大久保清はそれを悲観していなかったようだと近所の人は言う。

それよりも また親父のすねをかじってブラブラできる日々を送れるのがうれしかったようだと。

そして 再び大久保清に関するおかしな噂が立ち始めた。

大久保清が角帽をかぶり、若い女性と連れ立って歩いている姿を 近所の人たちが見かけていたのだ。

清光電機商会の若き経営者は店が倒産したのをきっかけに 有り余る時間をガールハントにフル活用していた。

群馬大学の購買部で購入した角帽をかぶって、法政大学の学生を詐称していたのだ。

その翌年、昭和30年7月、大久保清は婦女暴行の初犯として捕まり、懲役1年6か月執行猶予3年の判決を受けた。

初犯だったからか 刑務所入りは免れた。

大久保清20歳の時の話である。
 
 
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大久保清 20歳~24歳

この時 大久保清は家人と自分に謹慎を誓った。
 
でもそれはこういう事件を起こさないということではない。

「あんなうそつき娘に引っかからないように用心する」という意味だ。

大久保清に言わせると、男を誘ったのは相手の女性だ!という。

例えば、列車に乗るはずだった女性が自分とのおしゃべりを楽しんで列車を1本見送り、夜9時まで楽しく語らっていたのだから、女性が自分を誘ったわけだ・・・要するに「悪いのは相手の女だ」と。

自分がやったことを棚に上げて反省の色は全く見えず、非常に始末が悪い男だ。

大久保清が繰り出す奇妙な理屈を同情的に聞いてくれたのは母親のキヌ一人で、当然 警察・検察・裁判所はこれを一蹴した。

ところがその5か月後、昭和30年12月に 執行猶予中の大久保は、またしても女性を襲って捕まったのである。

近くの農夫が女性の悲鳴に気づいて駆けつけたため 女性は事なきを得たが、顔を殴られて負傷していた。

これにより大久保清は懲役2年の判決が下り、前回執行猶予が付いた刑期1年6か月が加算されて合計3年6か月の実刑が下り、松本刑務所に収監。

初めての刑務所生活は規律の厳しさ以上に受刑者仲間のリンチがつらく、大久保清は一日も早く出所するために模範囚たらんと心がけ、入所3年で仮釈放を許された。

20歳で刑務所入りした大久保清はもうすぐ25歳になろうとしていた。

息子の出所を母親は泣いて喜び、祝いの膳に鯛の尾頭付きを用意し、ボクちゃんに食べさせるためにいそいそと魚の身を箸でほぐしてやったという。
 
 
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大久保清 25歳~27歳

刑務所入りする前は角帽をかぶって大学生を装いガールハントをしていた大久保清は、出所後も同じ手でいくことに決めていた。

しかし25歳という年齢は、普通の大学生を装うには少々トウが立っているので、学生活動家を装うことにした。

この時代に大久保清に誘われた女性は 彼が某大学の全学連の幹部と自己紹介したと言っている。

学生を名乗るには少しおっさんなので、学生運動に熱中して卒業が遅れていることにしたのだ。

そして昭和35年4月、大久保清は再び婦女暴行未遂事件を起こした。

この女性は一度は訴えようと考えたが、大久保側から示談の働き掛けがあり、裁判になって身元を知られることを恐れて示談に応じたから、大久保清は不起訴処分になった。

この未遂事件は自分の家の2階に女性を連れ込んだものだった(女性には下宿だと言っていた)

女性が大声を出して、大久保の両親が駆けつけたために未遂で終わったが、両親が飛び込んでくるまでずいぶん時間がかかったということで、大久保の両親に対してほう助の疑いが向けられた。

大久保の母親
ほう助なんてとんでもない!
若い者が二人してふざけていると思ったから知らんふりしようと思ったんだけど、それにしても様子がおかしいから、父ちゃんと二人でボクちゃんの部屋に上がってみたんだよ

またしても事件を起こした大久保清は母親に泣かれたために、

母親
二度と刑務所に行くようなまねはしてくれるな。母を心配させないでくれ!

しばらくは謹慎の色を見せていた。

ところがほどなくして 大久保清はまたガールハントを開始する。

そして後に妻となる女性・節子(仮名)と出会っている。
 
節子に目を付けた大久保清は彼女のあとをつけ、一人になった時を狙って「お茶でも飲みませんか」と数回誘い、「結婚を前提とした交際をしたい」と節子に告白した。

節子は「外で会うのは嫌だから家に来てほしい」と大久保清に言ったので 彼は週に三回くらい節子の家を訪れていた。

外で会うときにはいつも節子の友人が同席する習慣で、二人でする話は本や詩や山の話が多かった。

そんな交際を続けていくうちに、節子は大久保清のことを好きになってしまった。

しかし、彼らの一年くらいの交際期間中、大久保清は節子にずっと嘘をつき続けていた。

節子の前で大久保清は「渡辺許司」の偽名を使い続けていた。

大久保清
僕は専修大学4年で、前橋で学習塾をやっている。父は横浜で貿易商を営んでおり、父が老齢になったら横浜に戻って跡を継ぐが、それまでは自由な生活がしたいる。

こんな嘘八百を並べながら、節子との結婚式の直前には こう言いつくろった。

大久保清
事情があって、伯父の大久保家に養子に入ることになった。名前は清に改めたよ

口先が達者な大久保清は、これを節子や彼女の家族や親類縁者に信じ込ませ、昭和37年5月、大久保清と節子は結婚した。

大久保清は27歳、節子は20歳だった。
 
 
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大久保清 27歳~36歳

 

結婚後に節子は、これまで大久保清から聞かされていた話は真っ赤な嘘で、清は大久保家の実子であることも知る。

でも彼女には 清がなぜそんな嘘をついたのかがわからない。

節子
家は農業の傍ら雑貨商をやっていて、清は手伝うでもなく、なんとなくブラブラして過ごしていました。家はすべて両親を中心に動いている。

私は働き手として迎えられたのかもしれない。当時は半農といっても、田植時には4,5日も手伝いを頼まなければいけないほど田を持っていました。

生まれてから ただの一度も田の中に入ったことのない私も、必死になって働かなければならなかった。町育ちの私は裸足で歩いたことすらなかったから、その苦しさといったら…。

それなのに清はいつも仕事から外されている。姑が清を溺愛していて、働かせようとはしなかった。 

via:週刊ポスト昭和46年7/16号

では大久保清はこの頃何をしていたのか。

彼の異常性欲は結婚後も妻だけでは足りず、当時計画していた詩集の自費出版の仕事にかこつけて、毎晩のように女性を誘っていた。

大久保清と結婚の約束をしたという女性が家まで押しかけてくることもあり、節子がこれを咎めると、清は妻の首を絞めつけるなどの暴力を振るった。

昭和38年9月、大久保清は自宅を改装して牛乳販売店を始めた。

清光電機商会に告ぐ二度目の自営業であるが、節子が親戚の斡旋で牛乳販売店の権利を安く譲り受け、権利金や設備費は大久保の父親が捻出したのだった。

この当時にも、大久保清のガールハントは続けられていて、この時に使われていた小道具もルパシカ(プルオーバータイプのシャツ)と自家用車である。

大久保清はしゃれたルパシカを4枚持っていたが、そのうちの2枚は妻が縫ったものだった。

節子
センスのいい服装をしている夫を、心のどこかで自慢していた私も、それが女を作るための道具だとようやく知りました。

私と結婚したときの50ccのバイクから始まって、大きなハーレー、パブリカ、赤のペレット、グレーのペレットと車を買い替えました。  

via:週刊ポスト

二人の間には昭和38年に長男が、昭和40年には長女が生まれている。

二人目の子どもが生まれたころ、夫の夜遊びが減ったことを妻は喜んだが、それも束の間。

二人目誕生から2か月足らずで大久保清はまた事件を起こす。

配達した牛乳の空ビンを少年が持ち去ろうとしたのを見た大久保はその家に押しかけ、その少年の実兄の牛乳販売業店主に「20000円出せ。応じなければ泥棒として警察に突き出す」と脅迫して現金2万円を喝取。

さらにそれから12日後、「お前の弟を前科者にするのか。鑑別所に入れたいのか」と迫り、額面73000円の示談書を書かせた上で「家族全員が捕まりたくなければ現金2万円出せ」と脅迫。

被害者が警察に被害を届け出たので、大久保清はこの恐喝と恐喝未遂罪で、懲役1年・執行猶予4年の判決を受けた。

この事件の裁判で、節子は初めて大久保清の前科2犯を知り、赤ちゃんに授乳ができなくなるほどのショックを受けた。

翌年の昭和41年12月と42年2月、2件の婦女暴行を犯し、2件合わせて懲役3年6ヶ月の判決が下り、さらに恐喝事件の執行猶予も取り消しになったので、合計4年6ヶ月の刑を受け、府中刑務所での服役が始まった。

この時、大久保清32歳。

昭和44年2月に節子は大久保清の面会に行き、離婚したいと申し入れているが、この時も出所してからも 大久保はなかなか離婚に応じなかった。

府中刑務所での大久保清は模範囚だったため、8か月の刑期を残して仮釈放された。

そして昭和46年3月2日、大久保清出所。

両親はボクちゃんの出所を心から喜んだが、これが一連の大久保清連続殺人の幕開けになるとは知る由もなかった。

大久保清連続女性誘拐殺人事件

 

大久保清 連続女性誘拐殺人事件の全貌 その1


 

大久保清 連続女性誘拐殺人事件の全貌 その2


 

大久保清 連続女性誘拐殺人事件の全貌 その3


 

大久保清 連続女性誘拐殺人事件の全貌 その4


 

大久保清 連続女性誘拐殺人事件の全貌 その5【夢枕に立つ女】


 

大久保清 連続女性誘拐殺人事件の全貌 その6


 

大久保清 連続女性誘拐殺人事件の全貌 その7 【完落ち】


 

大久保清 連続女性誘拐殺人事件の全貌 その8【大久保清の最期】


 
 
 
 
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大久保清