桶川女子大生ストーカー殺人事件

桶川ストーカー殺人事件 猪野詩織 小松和人

桶川女子大生ストーカー事件

1999年(平成11年)10月26日午後1時前、埼玉県桶川市のJR桶川駅西口自転車置き場で、若い女性が刃物で刺された。

左胸と右わき腹を刺されたのは、桶川市内に住む女子大2年生の猪野詩織さん(21歳)で、すぐに病院に搬送されたが間もなく死亡した。

埼玉県警は殺人事件と断定し、上尾署に捜査本部を設置した。
 

猪野詩織さんはストーカーされていた

 
猪野詩織さんはその日、大学の午後の講義を受けるため正午過ぎに家を出て、自転車を駅の駐輪場に置いた直後に襲われたらしく、自転車に荷物が残っていた。

現場周辺の聞き込みにより、犯行直後に逃走した男の目撃証言も得られていた。

目撃された男は小太りの中年だった。

さらに猪野詩織さんの父親や友人の話から、猪野詩織さんに付きまとっていた小松和人(27歳)が捜査線上に浮上した。

小松和人は兄の小松武史(33歳)とともに都内で風俗営業店を経営していた。

小松和人と猪野詩織さんは1999年1月頃知り合い、交際していたが、間もなく詩織さんは小松和人の異常な性格に気づき、別れ話を切り出したが男は承知せず、執拗に電話してきたり 待ち伏せを繰り返していた。

嫌がらせはどんどんエスカレートし、小松和人は猪野詩織さんの顔写真入りの中傷ビラをばらまいたり、詩織さんの父親の勤務先に誹謗の手紙を送りつけたりした。

そして1999年6月には、小松武史・和人の兄弟は猪野詩織さん宅に押しかけて、これまで猪野詩織さんのために使った250万円を返せ!と脅していた。
 
猪野詩織さんと家族はこれを上尾署に訴え出たし、周囲の友人らに「もし自分に何かあったら犯人は和人だわ」と告げていたという。

捜査本部はこれまでの経緯から小松和人がクロだと考えたが、目撃された男は小太りの中年で、明らかに小松和人とは別人である。

しかし小松和人が殺し屋を雇った可能性もあるので、捜査本部は小松兄弟が経営する風俗店を徹底的に捜査し、従業員や関係者の顔写真を入手して目撃者に見せた。

すると、詩織さん殺害の犯人は 以前 風俗店の店長をしていた久保田祥史(くぼたよしふみ・34歳)に酷似していることが判明した。
 

犯人逮捕と指名手配犯の自死

 
1999年12月19日、警察は久保田祥史を任意同行して事情聴取したところ、小松武史から猪野詩織さんの殺害を依頼されたと自供した。

久保田祥史
刃物は都内のスーパーで購入し、犯行後に逃げる途中で捨てた。

そして猪野詩織さん殺害の容疑で、小松武史、久保田祥史、伊藤嘉孝、川上聡の4人が逮捕された。

小松武史は風俗店経営に関わりながら東京消防局板橋消防署に勤めていたが、1999年11月末で退職していた。

取調べに対して小松武史は、殺人に関しては否認した。

小松武史
従業員たちに命じて、300枚のビラを猪野詩織さん宅周辺や大学付近に貼らせたことと、800通の中傷文書をA子の父親の勤務先に送らせたことは認める。
 
だけど殺人には自分は関係ない。
 
それは事件直後に久保田祥史からの電話で はじめて知ったことだ。
 
久保田祥史は詩織さん殺害を小松武史から頼まれたと行ったが、小松和人は事件前から所在をくらましていたので、捜査本部は殺害の命令者が小松和人である確率は高いと考えた。

そこで小松和人を名誉毀損容疑で全国に指名手配した。
 
2000年1月27日未明、北海道弟子屈町の屈斜路湖畔で小松和人の遺体が発見された。

死因は水死で、死後数日が経過しており、警察は自殺と断定した。

その後の調べで、小松和人は事件直前に沖縄に飛び、名古屋を経て 北海道に潜伏していたことがわかった。

埼玉県警の怠惰と失態に非難轟々

事件は一応の解決を見たが、警察の対応に世間の非難が集中した。

1999年7月、猪野詩織さんと父親の訴えを受理した上尾署員3人は仕事が増えるのが嫌で告訴調書を改ざんして放置していた。

それが元で被害者を死なせ、容疑者を自殺させる結果となった。

この3人は懲戒免職処分となり、虚偽有印公文書作成などの罪で有罪判決を受けている。

また当時の県警本部長ら12人も処分された。

桶川ストーカー殺人の判決

  
2001年7月17日、さいたま地裁は分離公判で、殺人について無罪を主張している小松武史が主犯だと認めた上で

殺人を実行した久保田祥史に懲役18年、
見張り役をした伊藤嘉孝に懲役15年、
車の運転手役の川上聡に懲役15年を言い渡した。

小松武史に対しては、2006年9月5日、上告が棄却され、無期懲役が確定した。

被害者・猪野詩織さんの元交際相手・小松和人は名誉毀損罪の共犯とされたものの、殺人罪の共犯とはみなされなかった。

 
 
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猪野詩織さんが受けた嫌がらせ

1999年6月14日、夜遅くに小松和人ら3人が猪野家に押しかけて

小松和人
詩織のために従業員が金を使い込んだのだから弁償しろ!

・・・と怒鳴り込んできたことで、猪野詩織さんへの嫌がらせが発覚した。

その時は 途中で詩織さんの父親が帰宅したため、口論の末に連中は帰っていったという。

それまで詩織さんは小松和人とのトラブルなどを両親に話しておらず、一人で問題を抱え込んでいたが、これを機に父親は 娘に大変なことが起きていることを知った。

そしてその翌日に、猪野詩織さんと母親が上尾署に相談に行ったのだ・・・前夜の様子を録音したテープを持って

上尾署の刑事課で対応したのは年配と若手の二人の刑事だった。

テープを聴いた若手刑事のほうは「これは変ですよ」と身を乗り出して事態を真摯に受け止めた。

ところが年配刑事は こう切り捨てて、取り合わなかったという。

年配刑事
これは民事、民事。事件になってないから。
 
男女関係に警察は民事不介入だからね。
 
こんな忙しいときにまったく!
 
 

猪野詩織さんは1999年1月に小松和人に池袋で知り合っていたが、3月には小松の異常な面に気づき 別れ話をしていた。

その直後から小松和人は豹変し、ストーカー行為や脅迫を始めたのだ。

小松和人は「青年実業家」と名乗っていたが、実際には池袋で数軒をもつ風俗店の経営者だった。

詩織さんは親に迷惑をかけまいと、相談もせずに一人で嫌がらせに耐えていた。

1999年7月、詩織さんを中傷するビラが自宅や大学、父親の会社の周辺にまで大量にばら撒かれた。

さらに深夜に車からの大音量の誹謗中傷が流された。

自宅には嫌がらせ電話が続いたので、電話番号の変更も余儀なくされたが、変えた電話番号も小松らは部下を使って、わずか2日で調べ上げたという。
 

上尾署は「告訴状」を「被害届」に改ざんしていた!

上尾署に告訴状を出しに行ったのは7月29日。

告訴状さえ出せば警察は動いてくれると信じ、猪野さんは意を決して提出したのだった。

それから数週間は家族としてはこれで落ち着くだろうとホッとしていたのだが、小松らの嫌がらせに終止符は打たれなかった。

8月23日、詩織さんの父親の会社に、手書きで宛名を書いた800通もの中傷文書が届いたのだ。

猪野家が、警察が動いていないのではないかと疑いだしたのはこの頃からである。
 
 
そして、もっと驚きの展開を迎えたのが9月21日だった。

上尾署の刑事が一人で猪野家を訪問し、こう切り出したという。

刑事
告訴状を取り下げてもらえませんか。
 
また何か起きたら出せばいいわけですから。

一度告訴状を取り下げてしまうと再度告訴はできないはずなのに その刑事は「また出せばいいわけだから」と言う…被害者にしてみれば 理解に苦しむ行動である。

この刑事がなぜ告訴状を取り下げろと言ったのか?

それはそうせざるを得なかったからだ。

上尾署は9月7日の段階で、「告訴状」を「被害届」に改ざんしていたのだ。

取調べ中に当時の刑事課長Kはこんなことまで堂々と言ってのけていた。

刑事課長K
鑑識出身の自分に、事件の担当ができるわけがない。

じゃあなんで刑事やってるんだ!?
 
 
10月16日、再び奴らは夜中に大音量でやってきた。

この時期にも、詩織さんの携帯にはたびたび小松和人から連絡があったが、家族を心配させまいと黙っていたのだった。

そしてその10日後の10月26日昼過ぎ、大学に通おうと桶川駅に向かったところで、詩織さんは刺殺されてしまった。

 
6月に警察に相談に行って以来、告訴状提出も含めて、猪野さんは何度も上尾署に助けを求めに行っていたが、埼玉県警は一向に動こうとはしなかった。

それどころか書類を改ざんまでして、事件を放置していたのだ。

そんな警察の対応に、詩織さんは身の危険を感じ、不安を募らせていたのかもしれない。

事件直前の9月に、当時小学4年生だった次男をひざに乗せて、そっと泣きながらこう言ったという。

詩織さん
お姉ちゃんね、殺されるかもしれないんだ…
 
 

この事件がストーカー被害を見直すきっかけとなり、2000年11月に「ストーカー規制法」が施行され、警察が男女のトラブルなどに介入できるようになった。

その対象は「恋愛感情やその他の好意、それが満たされないことによる怨念感情を満たす場合」に限定され、待ち伏せ、面会、交際の強要、乱暴な言動、連続した電話やファックス、汚物の送付など、具体例が決められている。
 
 
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