永山則夫の生い立ちと連続射殺事件【警察庁広域重要指定108号】

永山則夫 連続射殺事件 108号事件

永山則夫の生い立ち

永山則夫は1949年(昭和24年)6月 北海道網走市呼人番外地で 8人兄弟の7人目の四男として生まれた。

永山則夫の幼児期に、一家は父親の博打のかたに住家を取られ、極貧の中、父親は則夫の生後まもなく失踪。

母親は永山則夫が5歳のときに出奔。

子供たちだけで餓死寸前で一冬を越したあと、青森県北津軽郡にいた母親が再婚したのを機に子供たちも青森に移った。

母親が生活保護を受けながら魚の行商などをして子供たちを育てていたが、やがて一家は離散。

永山則夫は新聞配達などの仕事をし、中学の出席日数が足りなかったがお情けで卒業させてもらう。

当時の中卒者は「金の卵」(低賃金労働力)として歓迎されたので、永山則夫も中学を出ると集団就職で上京した。

集団就職列車で上野に着いた永山則夫のはじめの仕事は渋谷のフルーツパーラーの老舗の店員だった。

そこを喧嘩でクビになってしまい、1965年9月には横浜港の外国船にもぐりこんで密航を計るが失敗。

その後は自動車修理工、牛乳店、米屋、生肉店、喫茶店店員など職を転々と渡り歩き、窃盗罪で二度捕まっている。
 
 
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1968年 永山則夫連続射殺事件

1968年10月、永山則夫は盗みにはいった横須賀米軍基地の宿舎で小型拳銃とジャックナイフを見つけて盗んだ。

この偶然手に入れた拳銃が永山則夫の狂気を増幅させ、行きずりの4人を射殺する結果となった。

①10月11日、東京プリンスホテルでガードマン(27歳)を射殺。

②10月14日、京都八坂神社境内で警備員(69歳)を射殺。

③10月26日、函館近郊でタクシー運転手(31歳)を射殺

④11月5日、名古屋市内でタクシー運転手(22歳)を射殺し、現金と腕時計を強奪。

ここで犯行はピタリとやんだ。

いずれも午前1時前後という深夜の凶行で、弾丸から同じ22口径の拳銃による連続射殺事件を警察庁は「広域重要事件108号」に指定した。

この事件は遺留品や目撃情報から、当初は外国人か外国暮らしの経験を持つ異常性格者か、船員による犯行と見られていた。

第四の犯行後、永山則夫は新宿に立ち戻り、中野区若宮町の「幸荘」の三畳間をねぐらにし、歌舞伎町のジャズ喫茶に勤めて日銭を稼いでいた。

永山則夫が勤めていたジャズ喫茶には、ビートたけしが働いていたという。

第一の犯行から約半年後の1969年4月7日、永山則夫は東京・千駄ヶ谷の国鉄沿線にあった英語学校に侵入。

ガードマンに向けて3発発泡して逃走し、明治神宮北参道前で緊急配備中の警官3人に囲まれ、逮捕された。

ちなみにこのガードマンは弾があたらずにすんだ。

永山則夫の公判。永山則夫はなぜ4人を殺したのか?

1969年8月8日、永山則夫連続射殺事件の初公判が行われたが、永山則夫はずっと黙秘を決め込んでいた。

ところが1970年6月30日の第11回公判では永山則夫は裁判長や検事を指差して、こう叫んだ。

永山則夫
事件が起きたのは、おれが無知だったからだ。

無知なのは貧乏だったからだ。

俺はそれが憎い!

そして永山則夫は突然、英語でしゃべりだした。

それはボンガーの「犯罪と経済状態」の一節。

永山則夫
貧乏は人の社会的感情を殺し、人と人との間における一切の関係を破壊し去る。

すべての人々により捨てられた人は、かかる境遇に置き去りにせし人々に対して、もはやなんらの感情も持ちえぬものである。

法廷内は騒然とし、これを見た関係者は、永山則夫が拘置所内で一人、猛勉強しているのを知った。

永山則夫は自負心が強く、傲慢なところがあり、拘禁症状も相まって かなり感情の起伏が激しかった。

身柄引受人には、自分の面倒を見るのは当然だと言ったり、「自分の思想を代弁できない!」と言って何度も弁護士を代えたり、自分の弁護をしたいのなら100万円カンパしろ!などと要求したりもした。

また、死刑廃止運動にものめりこんでいた。
 
 
1979年7月10日、永山則夫の一審判決は死刑。

10年ほどかけた一審で永山則夫は二度死刑を求刑され「弁護士抜き裁判」適用第一号となり、死刑裁判の判決は「欠席裁判」で行われた。
 
 
1981年8月21日、東京高裁で無期懲役。
 
永山則夫はこの判決の前(1980年12月12日)にアメリカ・ネブラスカ州オアハ在住の女性と獄中結婚をしている(差し戻し決定時に離婚)

そして当時 鈴木淳二弁護士は永山則夫の妻を伴って、永山の「無知の涙」の印税を持って、被害社宅を訪ねている。
 
 
1983年7月8日、最高裁が二審(無期懲役)を破棄し、高裁差し戻し。

高裁における無期懲役への減刑は、検察側の上告によって最高裁がこれを破棄し、高裁に差し戻す判決がくだされた。

1985年に永山則夫と妻は離婚し、結婚生活は5年で終わった。
 
  
1987年3月18日、差し戻し審 判決公判で死刑判決。

1990年4月17日、上告棄却、死刑判決

1990年5月8日、永山則夫に死刑確定。
 
 
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無知の涙

自分はなぜ行きずりの人を4人も殺したのか?・・・その答えを求めて永山則夫は獄中で思想書、哲学書を読み漁り、小説を書き続けた。

1971年3月10日、永山則夫が拘置所内でつづった複数のノートを土台にした獄中日記が「無知の涙」というタイトルで出版された。

それらの大学ノートには 1から10まで番号とタイトルがついていて「ノート1 死のみ考えた者がいた」から「ノート10 自己への接近」までの10冊で、ノート1冊が1章となっている。

【ノート1】

私は四人の人々を殺して、拘留されている一人の囚人である。

殺しのことは忘れることができないだろう一生涯。

しかし、このノートに書く内容は、なるべくそれに触れたくない。

何故かと云えば、それを思い出すと、このノートは不要になるから。

「無知の涙」は永山則夫の幼時の極貧生活や、その背景にある社会の歪みを抉って世間に衝撃を与え、ベストセラーになった。

永山則夫は 1971年に「人民を忘れたカナリヤ」を上梓し、その印税は被害者の遺族に贈られた。

1983年に発表した「木橋」では 永山則夫に新日本文学賞が与えられた。

永山則夫の印税

函館で永山則夫が射殺して売上金を奪ったタクシー運転手(当時31歳)には 妻と二人の子供(3歳・6ヶ月)がいた。

印税は子供たちのために贈りたい…これが永山則夫の出版目的のひとつだった。

永山則夫
印税とやらは、入るならば それはそっくりそのまま函館の遺児にやること。

向こうの母親が拒絶しても、必要とするのは遺児であることを納得させ、絶対的に遺児の養育費に使用させること。

遺児がひもじい思いをしているならば、これをなるべく早期に実行すること。

北海道の冬は寒すぎるんだ。

 
 
永山則夫の生前に市販された単行本、文庫本、自費出版の私家本はあわせて16冊になった。

「無知の涙」はベストセラーになり、約271,500部。

「人民をわすれたカナリアたち」は65,000部。

「木橋」は33,000部で、総部数は43万部にも達し、印税総額は2000万円を超える。
 
 
印税の使途は、受け取りを拒絶した遺族もいたが、函館のタクシー運転手の遺族には1971年5月から1975年8月までの間に 合計463万1600円贈っている。

京都の神社警備員の遺族には、1971年8月から1975年1月までの間に、合計252万4400円を贈っている。

あわせて715万6000円となり、もっと贈ろうと思ったが、受け取ってもらえなかったという。

永山則夫の最期

 


 
1997年8月1日午前10時39分、永山則夫の死刑が執行され、俗世間19年+獄中生活29年間だった永山則夫の人生にピリオドが打たれた。

享年48歳。

永山の遺言で、遺骨は故郷のオホーツク海に、元妻によって散布された。

生前、永山則夫は知人に「死刑執行時には全力で抵抗する」と言っていたが、実際に永山は執行前の抵抗を試みたようだ。

【1997年8月3日の大道寺将司の日記】

8月1日(金)の朝、隣の舎棟から絶叫が聞こえました。

抗議の声のようだったとしかわかりませんが、外国語ではありませんでした。

そしてその声はすぐにくぐもったものになって聞こえなくなったので、まさか処刑場に引き立てられた人が上げた声ではないだろうなと案じていました。

注意してみると、このフロアもいつもと雰囲気が違いました。

幹部の視察がなく、夕方の点検にきた看守は、ぼくと視線をあわせずにそそくさと通過して行きましたから。

懸念を深めるばかりで、8月2日(土)を迎えました。

午前中の新聞の交付がいつもより遅くなり、僕の分は別扱いにされた看守が持ってきました。

折り畳まれたものを開くと「朝日」の8月2日朝刊の一面左上が大きく黒く塗りつぶされていました。

前日、誰かが東京拘置所で処刑されたのでしょう。

では、やはりあの大声は、処刑場に連行される人のものだったのだろうか?

今回の死刑執行は年二回、複数人処刑ということを単に踏襲したものなのか、それとも神戸の小学生殺人などを受けて 法秩序維持を見せつけるためのパフォーマンスとして行われたのか。

【1997年8月9日の大道寺将司の日記】

8月1日の朝に「絶叫」を聞いたと書いた手紙にクレームがつけられたので、広辞苑で「絶叫」の意味を調べました。

そうすると「声の限り叫ぶこと」とあります。

そこで「叫ぶ」を調べると「大声を上げること」とあります。

8月1日の朝のことを改めて思い起こしてみました。

ぼくが耳にしたのは隣の棟で、何かに怒り、あるいは抗議して上げられた大声でした。

ちょっと声の調子が高かったというようなものではなく、短い時間でしたが、振り絞った声に聞こえました。

ですから「絶叫」という表現が間違いだとは思いません。

ただ「絶叫」が喚起する声が「キャー」とか「ギャー」というものだとしたら、ぼくの聞いたのそういうものではありません。

ですから、そういう誤解を招くというのであれば「抗議の叫び」とか「抗議のために上げられた大声」と訂正したほうがいいかもしれません。

当局のクレームに応じなかったのは「8月1日の朝にはそんな声は上がらなかった」と、ぼくが嘘を書いたかのごとき調子だったからです。

それで、冗談じゃないと書き直しを拒否したのです。

※大道寺将司は連続企業爆破事件の死刑確定囚。企業などを爆破したことにより多数の死傷者を出したり、天皇暗殺を計画した。2017. 5.24獄死、享年68歳。

※上記の「大道寺将司の日記」はいずれも「死刑確定中」大道寺将司 から引用。


 

永山則夫は大道寺将司の隣の棟に収容されていたので、絶叫は永山則夫のものとみて間違いないと思う。

永山則夫の最期の声を聞いたのは、あるいは大道寺将司だったのかもしれない。

死刑執行後に永山則夫の遺体は速やかに荼毘に付されたようだ。

処刑3日後の8月4日、永山則夫には遺体や遺品を受け取る正式な引受人がいなかったため、遠藤誠弁護士や大谷恭子弁護士らが東京拘置所に遺骨を引き取りに出向いた。

そのときに拘置所から、永山則夫の口頭による遺言が伝えられた。

遺書はなかった。

大谷恭子弁護士
執行の様子は耳に入っていませんが、大道寺さんの報告は永山君のことじゃないかと思います。

刑場におとなしく連れて行かれたのだったら、彼なら遺書を残すはずです

永山則夫が獄中29年間、ものを書き続けていただけに、遺書のないことが納得できないと言っているのだ。

東京拘置所が処刑直前に永山則夫から聞き取ったという遺言は ・遺品や著作権を遠藤誠に渡すこと ・最後に書き続けていた未完の小説「華」を出版し、その印税を遠藤・大谷が協力して、特にペルーの貧しい子供たちへ贈る事などの5点だったという。

永山則夫の遺言を実行するために、1997年9月、「永山こども基金」が設立された。
 
 
遺骨を引き取りに行った弁護士でさえ、最期の様子を教えてもらえないというのだから、マスコミが書き立てる処刑の前の死刑囚たちの様子も眉唾ものが多いのかもしれないと思う。

その最たる例が大久保清だろう。

永山則夫の死刑執行について、松浦法相は「感想はコメントしないが、淡々と職務を遂行した」とのみ答えている。
 
 
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