永田洋子(ながたひろこ) 連合赤軍リンチ殺人事件 鬼女の生い立ち

永田洋子 生い立ち 山岳ベース事件

via:朝日芸能

 

永田洋子(ながたひろこ)の生い立ち

永田洋子(ながたひろこ)は1945年(昭和20年)2月8日に、東京・本郷の平凡な家庭の長女として生まれた。

父親は一流会社のサラリーマン。

母親は病院の看護婦長。

横浜の綱島小学校に入学した永田洋子は成績がよく、小5あたりからトップクラスの座を保つようになった。

性格が勝気で負けず嫌いだったから、率先してよく勉強したというが、本人が望むほど目立つわけではなく、当時の担任や同級生の記憶にはあまり残っていないらしい。

永田洋子は中学進学で保守的校風の私立調布女学院へ進んだ。

中等部での成績もトップクラスで「勉強ができる頭のいい子」という評判は高かったが、容姿のコンプレックスはこの頃から強かったようだ。

永田洋子 生い立ちvia:https://okwave.jp/

背が低くて色が黒く、出っ歯の永田洋子のあだ名は「おイモちゃん」

クラスメートたちがおしゃれの話をしてキャピキャピ騒いでいるときも、永田洋子だけはスカートのしわひとつ気にしなかった。

永田洋子の強みはこの頃から頭脳での勝負事にのみ集約されていた。

高等部に入ってからは、永田洋子の感情の起伏の激しさはさらに目立つようになり、教師を追いかけてまで納得のいかない部分を教えてもらうほど勉強熱心だったというが、その一方でクラス内ではそれと相反する矛盾発言が多かった。

永田洋子
皆はいったい、なんのために勉強なんかしているの?
永田洋子
こんな所(教室)にいないで外に出ましょうよ。

ホームルームでの意見発表などのときにも少女らしからぬ屁理屈を並べた発言が多くなり、担任教師も首をかしげていたほどだ。

永田洋子は卒業記念アルバムに「大きな社会に入っても、人間という機械になりたくない」と書いた。

同級生たちは思春期世代らしいロマンチック系の文章を残す人が多かったので、永田洋子の一文はひときわ異質だった。
 
 
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京浜安保共闘の誕生

永田洋子は看護婦長をしていた母親の影響からか薬剤師を目指し、大学は共立薬科大学に進んでいる。

大学に進んでも、永田洋子の講釈好き、議論好きはうわさになるほどだった。

友人たちは会うごとに、永田洋子からこう訊ねられ、畳み掛けられ、辟易したという。

永田洋子
今の社会はこれでいいのかな。医療問題を君はどう思う?同じ社会で同じ仕事をしていても、医者は大金を取り、薬剤師はちょっぴりって、割り切れない話だと思わない?私は共産主義の方がいいと思うんだけど、君はどう思う?・・・・・・・云々

この頃から、永田洋子は 高校生の頃から病んでいたバセドー氏病(甲状腺ホルモンに関する病気)が悪化し、大学4年になる年の春に手術を受けた。

バセドー氏病など、甲状腺機能に障害を与える病気にかかると精神不安定やヒステリーという症状が現れるというので、永田洋子の残虐性とバセドー氏病を結びつけて「病気が永田洋子の犯行の大きな原因だった」と考えた人たちが多かったと言われるが、永田洋子の手術をした医師は「永田は手術後に感知していた」は言っているので、永田洋子の残忍性と病気はあまり関係ないのだと思う。

薬科大学在学中から、永田洋子はセクトを選ばずにさまざまなデモや集会に参加し、左翼系の本を読みあさっていた。

大学卒業後、いくつかの病院で働いたあと、1967年(昭和42年)永田洋子は神奈川の済生会病院に腰を落ち着けていた。

日増しに激化していく学園紛争や反戦デモについて論じたがる永田宏子に、周囲の薬剤師たちは白い目を向けていた。
 
 
1967年10月、佐藤首相のベトナム訪問阻止のデモが羽田で行われ、機動隊と学生たちが激しく衝突し、京大の学生一人が死亡し、多数の負傷者や逮捕者が出た。

この頃を境に三派系全学連(中核・社学同・社青同・第四インター・ML派)の主導権争いが過熱を極め、分裂を余儀なくされはじめた。

理論闘争から武装闘争へ、デモに結集する学生たちが体を張って意思表示をすればするほど 警察の取り締まりも悪辣になっていった。

闘争の場は街の中へも広がっていき、市街戦が何度となく繰り返されるようになった。

永田洋子はそんな中で知り合った山内陽子に誘われて、ある女性史研究会のグループに出入りするようになっていた。

山内陽子は、後の京浜安保共闘のリーダー、川島豪の恋人だった。

川島豪は東京水産大学在学中からブント(共産主義者同盟)の活動家だった。

※ブント…日本共産党(代々木)が行った「はねあがり学生閉め出し」に抵抗し、共産党から飛び出した者たちによって昭和33年に結成された全学連の1セクト。その後、全学連の主導権を握っていたが、2年後に分裂。マル学同に権限を譲ったものの、その闘いぶりは終始一貫荒々しくゲリラ的だった。
重信房子を生んだのもブントであり、暴力革命をうたう赤軍派もブントが土台になっている。

永田陽子は、川島豪の説得性のある理論に心酔した。

川島豪はゲバルト闘士タイプではなく、物静かな話し方をしながら他人に説教する教祖タイプだった。

ブントの理論から少し外れて毛沢東の遊撃線の理論を唱えていた川島豪に習って、永田陽子もその方面の勉強を始めた。

「議論で永田洋子の右に出る者はいない」と同志たちにも言われただけのことはあるほど、永田洋子は猛勉強をしていたという。
 
 
1969年(昭和44年)川島豪は、日共革命左派 神奈川委員会を結成。

そして山内陽子や永田洋子らは 女性史研究会を「婦人解放同盟」と改称し、8月に両方を合体させた「京浜安保共闘」が誕生した。
 
 
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京浜安保共闘+赤軍派⇒連合赤軍の誕生

永田洋子は済生会病院をやめ、アルバイトをしながら京浜安保の書記局の仕事に没頭した。

当時の執行委員の中には、あさま山荘事件の坂口弘・吉野雅邦もいた。

1969年9月、彼らは羽田で愛知外相訪ソ阻止のために滑走路で火炎瓶を投げつけるなどの行動をとり、小さなセクトだった京浜安保共闘の名前が要注意対象として挙げられるようになっていった。

1969年11月に川島豪が逮捕された。

兵士たちも相次いで逮捕されていったので、後に残ったのは執行委員をしてた永田洋子だけとなった。

永田洋子と同格だった山内陽子は、恋人(川島豪)が逮捕されてから身を潜めなければならなくなり、事実上、指導者としての立場を放棄する形を取らざるを得なかった。

このときの永田洋子の党再建にかける意気込みは相当なものだったという。

永田洋子は「武装闘争なくして革命はありえない!」とし、ゲバ棒や火炎瓶などの子供だまし的なものではなく、銃を使って革命戦争の中に突き進む決意をしたのである。

そこで1970年(昭和45年)12月、東京上赤塚の交番を襲撃し、銃奪取を試みたが失敗し、同志の一人が撃たれて死亡した。

それでも永田洋子は諦めなかった。

1971年(昭和46年)1月25日、今度は綿密な計画を立てて6名の同志を栃木県真岡市の銃砲店へ送り込み、散弾銃10挺と弾丸1500発を盗み出させることに成功する。

永田洋子らが唱えた唯銃主義に歩みを進めたことに、川島豪は獄中から拍手を送ったという。

川島豪が永田洋子をはじめとした同志に唱えていた「敵の消滅すなわち味方の保存」という軍事法則を貫くためには、どうしても銃が必要だったからだ。

そして同志間の愛、思いやり、同情などはすべてタブーとなり、永田洋子は武器への幻想の頂点に立つ女王になった。

獄中にいる川島豪の代わりに采配を振る永田洋子の恋人として選ばれたのが坂口弘だった。

2人はコンビを組んで「革命」に向かって走り続けていた。
 
 
この時期、ブント赤軍派は首相官邸を襲うための訓練を山梨県大菩薩峠で行っていたが、53名が逮捕されるなど、不穏な空気が流れていた。

1970年(昭和45年)3月には「よど号ハイジャック」に成功し、「泣く子も黙る赤軍派」というイメージを世間に浸透させた。

でも、赤軍派には軍資金はあっても武器がなかった。

逆に京浜安保には武器(銃)はあっても軍資金がない。

銀行や郵便局を襲撃しては金を奪っていた赤軍派が自分たちと同じ武装闘争を提唱していることに目をつけた永田洋子は、赤軍派幹部に近づき、「武器と金の交換」を申し入れた。

赤軍リーダーの森恒夫はこの話に飛びついてきた。

両グループのトップは1971年(昭和46年)4月に初顔合わせをし、急接近。

暴力革命、銃を軸にしたせん滅戦で意志が一致し、7月15日に両派を合体させた「連合赤軍」が誕生した。
 
 

連合赤軍は、キューバ革命の指導者の一人のチェ・ゲバラを師と仰いで、世界同時革命を唱える赤軍派と、毛沢東理論を信奉して一国革命を唱える京浜安保共闘が手を結んだ地下ゲリラ組織である。

だから、京浜安保・教祖の川島豪は、獄中から異議を唱えた。

京浜と赤軍はもともと路線が完全に一致していないから合体は無理だ!と。

しかし、永田洋子の中では 獄中にいる川島豪はすでに過去の人間で、これを機に川島と永田は思想上の訣別をする。

そして永田洋子は京浜安保の支配権を完全に掌握した。
 
 
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脱走するなど革命家の恥!裏切り者は処刑される

永田洋子ははじめから都市ゲリラ方式を選ばず、山岳アジトで軍事訓練を行ってから都市を攻略する方法を考えていた。

まずは京浜安保の13人のメンバーを率いて、奥多摩にキャンプを張ったが、水道も電気もない山奥のキャンプは思ったよりもきついアジト生活で、2人の脱走者が出た。

脱走したのは向山重徳(20歳)と早岐やす子(21歳)の恋人同士の2人。

脱走者の密告を恐れた永田洋子は、直ちにアジトを変えた。

その上で部下たちに、脱走した2名を探し出して 殺害することを命じた。

「脱走するなど革命家の恥!」と怒鳴り付けられはしても、よもや殺されるなどとは思ってもみない2人は、東京でメンバーに探し出されても、あまり気にせずに対応していたが、その後彼らは、千葉県印旛沼近くの土中に埋められた。

「2名を埋めてきました」の報告に、永田洋子は不敵な笑みを浮かべて、満足そうにうなずいたという。

「裏切り者は処刑される」・・・永田洋子はそう言って、脱走者殺害を正当化していた。

永田洋子がその後「総括」という名の下に仲間をなぶり殺しにしていった背景のひとつがこの脱走事件だった。

脱走者が出ることを永田洋子はもっとも恐れた。

革命幻想に浸りきっていた永田にとって、同志の裏切り→密告、脱走は なんとしてでも阻止しなければならなかった。

そのために「軍」の規律を厳しくし、思想の統一をはかり、メンバーが一丸となって闘争への情熱を燃やすように、永田洋子は指揮をした。

1971年(昭和46年)1月に、京浜安保が射撃訓練をして力をつけつつあることにライバル心を掻き立てられた赤軍派は、南アルプスに新倉(あらくら)ベースを作り、森恒夫以下9名が山小屋に立てこもった。

それを知った永田洋子は、森恒夫に合同訓練を提案し、快諾を受けた。

それを受けた京浜安保メンバーは冬の山を分け入って新倉アジトに合流した。

吉野雅邦の子をみごもっていた金子みちよも、大きなお腹を抱えて永田洋子のあとをついて行ったという。
 
  
坂口弘は当時、永田洋子の恋人であり腹心の部下だったが、永田が赤軍リーダーの森恒夫に取り入っていることを見て取り、おとなしく身を引いた。

常に自分が周囲の男たちからあがめられていないと気がすまない永田洋子にとって、赤軍リーダーの森が自分をないがしろにすることは許せなかったのだ。

永田洋子は森恒夫に対して女王然として取り入り、森は口が達者な永田にひきずられていた。

その森恒夫にはじめからぴったり寄り添っていたのが遠山三枝子である。

遠山三枝子は新倉アジトに結集していた赤軍派の中の紅一点であり、重信房子と並び証されていたほどの美人である。

そのせいもあって、男たちが遠山三枝子に気を遣っていることも、永田洋子には不愉快でならなかった。

射撃訓練中にふとしたミスで腰を殴打してうずくまる遠山三枝子に、赤軍派の行方正時が「大丈夫?」と寄って声をかけた。

また、遠山三枝子はそのショックで生理がとまらなくなり、京浜安保の女性メンバーに「生理用品持ってない?」と聞いて回ったという。

これらの日常会話が永田洋子を激怒させた。

永田洋子
遠山三枝子を女だといって特別扱いをしている。
 
遠山も遠山で、それに甘えて女性兵士としての自覚を欠いている。

そしてこれがきっかけとなって、アジトでの討論集会が「個人をつるし上げる会」に変わっていったのである。

永田洋子はねちねちと遠山三枝子に迫った。

永田洋子
あんた、なんで山に来たのよ? 
 
山に着てまで髪を肩まで長く垂らしているのはどういうわけ?
 
そのうえ化粧までして。山で化粧が必要なの?
遠山三枝子
髪の長さと化粧が革命戦争の論理とどういう関係があるわけ?
永田洋子
あんた、赤軍の女王様みたいな顔で振舞ってるけど、甘えるんじゃないわよ。
 
指輪まではめてるようだけど、なんで捨てないのよ。
 
そういうプチブル的な矛盾を持ちながら立派な女性兵士になれると思ってんの?

さすがの森恒夫も、永田洋子のこうした感情的発言にはうろたえたが、結果的には永田の言う「遅れた分子を徹底的にしごいて養成する」という気迫と言い分にのまれ、同意する形となった。

このあたりからリンチの匂いがアジト内に流れ始めた。
 
 
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連合赤軍リンチ殺人事件(連合赤軍山岳ベース事件)

12月16日、一行は新倉アジトから群馬県の榛名山へアジトを変えた。

榛名アジトは 永田洋子の京浜安保が山の急斜面を切り開き、素手で建てた山小屋で、中には掘りごたつまであった。

自分の城に赤軍派を招いた形の永田洋子は、ますます主導権を握り、強硬な態度に出た。

強硬さのひとつに、永田洋子らが強制した右翼集団と見まがうほどの厳しいアジト生活の掟があった。

起床七時。小屋の掃除。下級兵士たちによる食事の支度。

食事は決して米を使わず、すべて麦にし、なべに野菜と魚の缶詰を入れてごった煮にした雑炊と決まっていた。

昼間は射撃訓練、たきぎ拾い、小屋の修繕、山をおりての買い物などの日課が各自決められていた。

そして日が暮れると討論会と、息をつく暇もないくらいめまぐるしい。

買い物のときに息抜きに一服しようとしても、メンバーの脱走を恐れる永田洋子が「告げ口制度」を設けた上で、必ず複数で行動させたので、緊張が解けるときがなかった。

緊張感が和らぐのはたきぎ拾いのときくらいで、このときは任務を遂行する名目で彼らは男女のペアを組み、日ごろの屈折した性欲を発散させていた。

告げ口制度があっても、お互いが口をぬぐっていれば誰にもわかるはずはなかったのだが、12月28日の夜、永田洋子は全員を前にして怒鳴った。

永田洋子
加藤、前へ出なさい!

加藤能敬が小嶋和子と抱き合っていたのを誰かが目撃して、永田洋子に密告したのである。

永田洋子と森恒夫
みだらなことを女性兵士にするという態度で、権力に立ち向かえると思ってるのか!

加藤も小嶋も事実を認めて許しを乞うたが無駄だった。

二人ともロープで柱に縛り付けられ、森恒夫と永田洋子の「殴れ!」と掛け声とともに全員から殴りつけられた。

その後二人は氷点下15度の小屋の床下に放置された。

小嶋がもうろうとして失禁すると、永田洋子はこう大声で叫んだという。

永田洋子
見ろ。こいつ、男の前で垂れ流して快感を味わってやがる!

このリンチ現場を見て震え上がったのが、その日にはじめてアジトに参加した京浜安保の山本順一・保子夫妻だ。

彼らは生後18日目の赤ちゃんを連れてきていた。

親子3人で革命を夢見てアジトに結集したにもかかわらず、この1ヵ月後には夫の山本順一は殺されてしまう。

その理由は、妻・保子のリュックサックの中に赤ちゃんのおしめを入れるのを手伝っているところを、永田洋子に見られたからだ。

永田洋子
夫婦気取りで革命ができるか!

総括にかけられた理由のほとんどが「男に媚を売ったから」「女とみだらな関係を結んだから」というもの。

とはいうものの、永田洋子自身も森恒夫に対して特別な感情を持っていたのである。

はじめ永田洋子は坂口弘と事実婚関係だったが、森恒夫と出会ってからは坂口から森に乗り換えている。

連合赤軍トップの森恒夫に逆らうことはできず、坂口弘は黙って身を引くしかなかった。

実は森恒夫には妻子があったのだが、逮捕直前には永田洋子との結婚を考えていた。

森としては愛とか恋とかではなく「革命のためにはそれが最善だ」と考えていたからである。

にもかかわらず、永田洋子は 男女間の特別な情は脱走者を出すことにもつながり、そうなると組織の崩壊は免れないとした。

そしてそんな永田洋子の攻撃対象は「女」に向けられた。

男を惑わして革命意識を混乱させると考えたからだ。

そして以前から永田洋子に目の敵にされていた遠山三枝子は1月7日、男たちに人気の的だったグラマーな大槻節子が1月末頃、妊娠8ヶ月だった金子みちよが2月8日に処刑された。


 

ちなみに、大槻節子は植垣康博の恋人だった。

金子みちよは、あさま山荘事件の犯人の一人・吉野雅邦の妻だった。

永田洋子は金子みちよを指差して「お腹の子供を引きずり出そう」と胎児に執着を見せたが、さすがの兵士たちもそれにうなづいた者はいなかった。

金子みちよの夫の吉野雅邦はそのとき別の場所にいて、妻を守ることができなかった。

これらの「死の総括」は、12月28日の加藤・小嶋へのリンチを皮切りに、2月14日に最後の犠牲者・山田孝が死亡するまで、休むことなく続けられたという。

49日間に12名の命が絶たれ、雪の下深くに埋められたのだった。
 
 
永田洋子は1972年2月17日に逮捕され、1993年2月19日に最高裁判所で死刑の確定判決。

2011年2月5日に東京拘置所で脳萎縮と誤嚥性肺炎のため65歳で獄死した。

 
 
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