宮﨑勤の生い立ちと狂気【東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件】

宮﨑勤

宮﨑勤の実家は室町時代から続く財産家で、宮﨑勤の祖父は旧・五日市町で絹織物業で成功した実業家だった。

しかし、工業高校を卒業した宮﨑勤の父親は織物の先細りを見越して絹織物業に見切りをつけ、1954年9月に「新五日市社」という印刷会社を興した。

設立当初は新聞の折り込み広告などの印刷がメインだったが、後に父親の発案で「秋川新聞」という五日市町の周辺市町村をエリアにした週刊ミニコミ誌を創刊・発行していた。

宮﨑勤が綾子ちゃん事件で再逮捕される直前の1989年8月6日付の第1727号まで 「新五日市社」は週一回発行を黒字経営で継続していた。

曾祖父が村会議員、祖父は町会議員、父親はPTA会長や地元消防団副団長などに就き、宮崎家は地元の名士として知られる裕福な家庭だった。
 


 
そんな宮﨑家に、宮﨑勤は1962年8月21日、三人兄弟の長男として生まれた。

後に3歳、8歳下の二人の妹が生まれている。

勤は身長48センチメートル、体重2165グラムの未熟児で、妊娠中に何度も骨盤位(さかご)になり、吸引分娩での出産であり、母親は母乳が出なかった。

母親は姑に忍従を強いられ、妊娠中も遠慮して十分な栄養を取らず、臨月になってからも自宅で畑仕事をしており、結果的にお腹の子が未熟児だった。

妊娠中に母親は、三世代同居の家庭でなかなか夜眠れず、睡眠薬を使っていた。

また持病の頭痛のために鎮痛剤も服用しており、貧血を起こして意識不明になったこともあったという。

正常分娩で生まれているが未熟児だった勤は当初は完全看護状態だったため、母親よりも18日遅れて退院した。

赤ちゃんの頃から神経が過敏で、ちょっとしたことでも泣き出す、世話の焼ける赤ん坊だったという。

虚弱な乳児だった長男は、外回りの多い母親に代わって、新五日市社の住み込み従業員に育てられた。

宮﨑勤に哺乳瓶でミルクを与え、オムツを取り替えたのは、当時30歳くらいの男性従業員だった。

この男性は智恵遅れで、両手に小児麻痺の後遺症の障害があったが、母親に代わって朝から夕まで勤の子守をつとめた。

「ベタベタ母親が育てたのでは、ろくな人間にならない」というのが姑の持論で、母が子を抱きしめられたのは夜になってからだった。

成長してからも勤は食べ物の好き嫌いが激しく、風邪をひいて寝込むことも多く、家族はどこかからだの具合でも悪いのではないかと心配していた。

その数年後、宮﨑勤に先天性の障害があることがわかった。
 
 
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宮﨑勤
僕には人に言えない悩みがある。両方の掌が普通の人のように上を向かないことだ。
 
これに気づいたのは幼稚園時代で、友達にからかわれて、それ以来ずっと他人の目を気にするようになった。
 
日ごろ食事のときは箸を使っているが、握力が弱いので フォークでスパゲッティーを食べたり、スプーンでスープを飲むことができない。
 
遊びもパズルとかルービックキューブで一人遊びをすることが多かった。
 
宮﨑勤は両方の掌を上に向けて「ちょうだい」のしぐさができない。

これに気づいた両親が息子を病院に連れて行き、診察を受けさせた結果に下された診断が「両側先天性 橈尺骨癒合症(りょうがわせんてんてい とうしゃくこつゆごうしょう)

生まれつき橈骨(とうこつ)と尺骨(しゃくこつ)とくっついている・・・本来離れるべき橈骨と尺骨がくっついていることで、腕の回転ができない症状の障害である。

生活の中で困ることは、店員さんからおつりを掌で受け取れないとか、顔を洗うときに手で水がすくえないとか、茶碗が持ちづらい、トイレでお尻が拭けないとか・・・普通の人には理解しづらいが、この障害を持つ当人は日常生活の中のささいなことで困ることが多い。

けれど、両側先天性橈尺骨癒合症についての詳しい病態や原因などはわかっていない。

女児より男児のほうに多く見られる障害で、治療としては整形外科的な手術くらいしかない。

しかし、これを得意とする医師は多くなく、症状にもよると思うが学童期までに施術するのがベターという説もある。

手術は 外科的に骨を削るか、あえて骨折のような状態にして骨の自己修復作用に任せるかという方法である。

自己修復の場合は確実に修復されるとは限らず、やってみないとうまく治るかどうかはわからないし、当然 修復するまで時間もかなりかかる。

宮﨑勤の両親は受診当時(勤が幼稚園ころ) 担当医師から

医師
手術しても100人に一人しか成功しない。
 
日常生活に支障がないのなら、手術するにしても、もっと大きくなってからの方がいいだろう。

・・・と言われ、それ以上の治療を受けさせず、結果的にそのまま息子の障害を放置してしまった。

結局、宮﨑勤の両親は息子に対して何も手立てを打たなかったし、障がい者の手続きも取らず。

その苦しい胸のうちを、宮﨑勤は祖父にだけ打ち明けている。

第二次・鑑定人
掌のことでそれほど悩んでいて、両親に相談しなかった?
宮﨑勤
●●(父親の実名を呼び捨て)は せせら笑っただけ。
鑑定人
お母さんには?
宮﨑勤
・・・・・。
鑑定人
おじいさんには話したの?
宮﨑勤
おじいさんは話を聞いてくれて、別に気にするなと言った。
鑑定人
話したのは、いつごろのこと?
宮﨑勤
幼稚園の頃に相談したと思う。
鑑定人
一回か二回で、相談するのをどうして止めたの?
宮﨑勤
また突っぱねられると思ったから。
鑑定人
掌のことをわかってくれない両親のことを今、どう思ってる?
宮﨑勤
テレビドラマではほのぼのとした家庭が出てくるけど、うちは違うな。
 
俗に言われる愛情と言うものがないのかな。

捜査本部が押収した宮﨑勤の母子手帳には、「両側先天性橈尺骨癒合症」が記されていた。 
 

宮﨑勤
4~5歳のころ、自分の掌が皆と違うことに気づき、そのことを両親に尋ねたが、具体的な説明をしてくれなかった。
 
それ以来、こんな掌にしたのは親のせいだと思った。
宮﨑勤
僕がいくら悩みを訴えても、両親は聞き流すだけだった。
 
一時期自殺まで考えたことがある。
 
理解してくれる女性はいないし、いるとしても障がい者同士じゃないか。
 
中学の授業で遺伝子について学び、掌の障害は先天性のものだから、子供を作れば遺伝すると思った。
 
だから一生、結婚しないと決心した。
 
これを読む限り、掌の障害が宮﨑勤の人格形成に多大な影響を与えたことは間違いないようで、気の毒に思う。

宮﨑勤
おやつを買うとき、頂戴という掌の格好ができないから、ひったくるようにしてもらっていた。
 
幼稚園のお遊戯の時間は地獄で、「おててつないで」も「ぎんぎんぎらぎら」も掌の返しができないとさまにならない。
 
「ひゃー」とする思いの連続で残酷だった。
 
 
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小学校の高学年になったとき、宮﨑勤が異常行動を取っていたのを 近所の主婦が目撃していた。

夏のある日、何十匹もトンボを捕まえて、自宅裏の河原で一人座り込み、数時間に渡りトンボの羽を一枚ずつ引きちぎっていたという。

ほかの虫や生き物も殺して遊んでいたらしいという情報もある。

幼稚園時代から爆竹が大好きで、爆竹を爆発させてはカエルやミミズを殺していたなど。

これらのことについて宮﨑勤は簡易鑑定のときに訊ねられて、こう答えている。

宮﨑勤
それは自分の掌の障害に対する腹いせではない。もしそうだったら、手だけもぐ。
 
トンボやカエルは人間に生まれてこられなくて苦しんでいる。
 
だから殺してやれば、神様が人間に生まれ変わらせるのではないかと思っている。
 
虫が虫でいることはつらいのではないか。

 
 
宮﨑勤は五日市町立五日市小学校に進んだが、なかなか友達ができない子供だったようだ。

おとなしい。無口。大勢と遊ばない。協調性に欠ける・・・先生や同級生は宮﨑勤にこんな印象を持っていた。

その後、町立五日市中学校に進んだが、一人ぼっちは変わらなかった。

宮﨑勤の学業成績は良いほうで、両親は勤に英語と数学の学習塾に通わせたり、英数二教科の家庭教師をつけた。

本人の努力が実って成績が上がり、宮﨑勤は東京都中野区の明治大学付属中野高校に合格した。

このころの宮﨑勤は明治大学文学部に進み、英語教諭になる夢を持っていた。

また明大付属中野高校を選んだ理由を友人から「何であんな遠い高校に行くんだ?」と訊ねられた宮﨑勤は「女の子がいない学校だから、自分で選んだのさ」と漏らしている。

宮﨑勤が住む五日市町のような郊外から高校がある東中野駅までは 片道二時間かかる。

そんな遠距離通学の疲れもあってか高校での成績はどんどん下がり、明治大学進学を諦めざるを得なくなった。

宮﨑勤は帰宅するとカバンを放り投げて 大の字になって寝ていて、自宅ではほとんど勉強せず、自室にこもってビデオ録画したり、漫画を読みふける高校時代だった。

宮﨑勤
多摩の田舎から遠くの高校まで二時間もかけて通学し、生徒の間の縄張り争いで暴力を振るわれるなどのいじめに遭い、つくづく世の中が嫌になった。

宮﨑勤が精神分裂症であるという鑑定結果を出した第二次鑑定の中安鑑定人は、宮崎が精神分裂症を発症したのは高校三年生のころと証言していた。

中学時代の担任
宮﨑勤に精神的な転機があったとしたら高校時代ではないか。
 
私の息子も当時、都心の高校に通っていたが、五日市に住んでいる子は純粋だから 都心に行くとカルチャーショックを受けて、劣等感に苛まれると言っていた。

成績が下がった宮﨑勤が高3になったとき 母親は「中学のときみたいに家庭教師をつけようか」と勧めたが、息子は拒否した。

当時の宮﨑勤の成績は五段階の絶対評価で二や三が多く、56人クラスで40番前後の成績だったので、希望していた明大への推薦入学は不可能だった。

そこで宮﨑勤の父親は、息子が将来家業を継ぎ「新五日市社」の仕事をするとの条件の下、息子を連れていくつかの学校などを見てまわった。

その中から東京写真大学の前身である東京工芸大学短期大学部・画像技術科を選んだ。

そして明大中野高校からの推薦入学枠を取り付けて、東京工芸大学短大・画像技術科に入学させ、現像焼付けや校正、デザインなどを学ぶことになった。

この短大は女子学生も多く、卒業生の大半がグラフィックデザイナーになったりと、華やかで人気の高い学科だった。

ところが宮﨑勤はここでも地味で目立たず、周囲におどおどした存在だった。

宮﨑勤
あの学校は女子学生が多く、自分の欠陥に気づかれるのが怖くて、絶対に話しかけないようにしていた。

1983年3月に宮﨑勤と同じ画像技術科を卒業した同級生の中に、タレントの川﨑麻世がいた。

事件当時の川﨑麻世
僕は記憶力が良いほうだし、クラスは全部で80人ほどだったから忘れるはずがないんだが、そんなヤツいたか?って感じなんだ。
 
同級生にも聞いてみたけど、誰も覚えていなかった。
 
 
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1983年4月、短大を卒業した宮﨑勤は、父親の懇願を受けた叔父の紹介で、東京都小平市の印刷会社に就職した。

この会社は従業員が600人もいる大規模な印刷工場で、技術も経験もなく、挨拶ひとつできない宮﨑勤が採用されたのは、この会社の得意先であった叔父のコネに他ならない。

宮﨑勤の父親は 内向的で営業が苦手な息子に家業を継がせるために、5年間の見習い期間を設定し、修行させる目論見だった。

当初は3年間で印刷・刷版・製版などの技術をひと通り習得し、残る2年間で営業を経験させる予定で、息子に「他人の釜の飯を食べさせた」

しかし、宮﨑勤の勤務態度は無気力で怠慢で、同僚らの評判も散々なものだった。

・命じられた仕事はこなすが あとは知らん顔するは、突然「帰ります!」と叫んで 上司の許可も取らずにさっさと帰宅する。

・仕事中でも平気で2~3時間いなくなる。

・同僚とも口を利かないし、世話になっている社長にもろくに挨拶をしない。

・頭痛や腹痛を理由によく会社を休んだが、そのたびに母親が言い訳の電話をかけてくる。
 

宮﨑勤の母親
勤はおとなしい性格で、周囲とうまく付き合えないだけなんです。
 
短大に進んだのは家業を継いでもらうためですし、卒業後3年間は修行のため 知り合いの印刷会社に勤めましたが「営業をやれ」と言われたので退職させました。
 
勤は仕事はできるのですが、周りがほとんどやってしまうので、自分から手が出せないんです。

 
・・・と母親は息子をかばうが、事実はまったく違う。

1986年3月に3年間の印刷見習いを終えた宮﨑勤に 会社側が神奈川県内の営業部への異動を内示したが、本人はウンともスンとも返事をしない。

そのうち会社内部では「ああいうヤツを外回りさせては顧客の信頼を失い、損害を被るだけだ」と批判の声が続出した。

そこで社長は得意先の宮﨑勤の叔父の元を訪問し、勤の勤務態度を説明し、婉曲に「解雇するのでは角が立つから、依頼退職ということで了解してほしい」と申し入れた。

驚いた叔父は兄(宮﨑勤の父親)に事情を話し、宮﨑勤は3月28日付で依頼退職となったのだった。
 
 

3年間のサラリーマン生活に終止符を打った宮﨑勤は当初、自室にこもって出てこなかったという。

父親が仕事を手伝わせようとしても働く意欲はなく、短大や印刷会社では技術を習得せずに終わっていたため、ほとんど何もできなかった。

しかし父親は息子に面と向かって叱ることはなく、妻に「お前から勤によく言い聞かせなさい」と言っただけだった。

宮﨑勤が家業を手伝うようになったのはその半年後で、手伝うといってもチラシ広告の原稿取りと配達くらいで、午前中に仕事が終わり午後はほとんど暇だったが、それでも15万円もの月給をもらっていた。

そんな状態でも後に20万円に昇給したとか…。
 
 
1986年4月から11月にかけて、宮﨑勤は4回お見合いをしていた。

見合い相手は同業者の娘が多く、父親は渋る息子に「同業者同士の義理もあるから」と説得して、見合いに出席させていた。

ところが宮﨑勤は「どうも」と言ったきりで下を向き、ほとんど相手と話をすることもなかったから、見合いは全て相手側から断られている。

宮﨑勤
結婚話は、世の中が入ってくると思って、ひゃーっとして、おっかなくてしょうがなかった。
 
 
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1986年7月、宮﨑勤は運転免許証を取得した。

宮﨑勤の母親
12月末に、外回りの仕事用に使う目的で、私がキャッシュで約180万円を払い、日産・ラングレーを買ってあげた。

近くの得意先に原稿をとりに行ったり、刷り上ったものを届けるだけなら、50CCのバイクでも十分だったが、

宮﨑勤の父親
あの車は、家業を継ぐ決心をしてくれた息子への感謝の気持ちだった。
 
宮﨑勤 ラングレー
via:https://matome.naver.jp/まとめ
 
 
宮﨑勤はダークグレーの日産・ラングレーの窓ガラスに、当時に使用が禁止されていたモスグリーンのフィルム(目隠しシール)を貼り、内部が見えないようにした。

ガソリンを入れるときでさえ窓ガラスを少しだけ下げて金を出し、中をのぞかれないようにしており、車内にも「自分だけの世界」を作り上げていた。

愛車の窓をフィルムで覆うことで、自分と世の中を遮断した宮﨑勤は、次第に行動範囲を西多摩地区から都心や埼玉県に広げていった。

そして後にあの大事件を起こす。

宮﨑勤

via:http://na2ka4.blog.fc2.com/

 
 
宮﨑勤のもうひとつの「自分だけの世界」である「ビデオ」に熱中し始めたのも、1986年である。

宮﨑勤は勤務時間中でも頻繁に工場を抜け出して、自室でテレビ番組を録画したりダビングしたりして、周囲のひんしゅくを買っていた。

それに対して父親は「仕事中に職場を離れることはするな!」と詰め寄ったが、息子は改めようとはしなかった。

宮﨑勤はビデオショップに頻繁に出入りし、複数の店やビデオサークルの会員になった。

サラリーマン時代の3年間は母親から小遣いをもらい、ほとんど給料に手をつけなかったため貯金が300万円ほどたまっており、そのほとんどを惜しげもなくビデオテープやソフトの収集につぎ込んだ。

そしてそのころから、宮﨑勤の言動がさらにおかしくなっていった。
 

宮﨑勤の母
印刷会社を辞めてから急に太りだし、唇がそっくり返るように厚くなって治らなくなった。
 
まるでお菓子を食べるように風邪薬を山ほど飲むようになったし、以前は神経質でコップを洗ってから出ないと水を飲まなかったのに、水道の蛇口に口をつけてガブガブと水を飲むようになった。
 
私が悲しいテレビドラマを観ていると、勤は「そんなに不幸なら死ねばいいじゃないか」などと言うので「どうしてそんな“気が狂ったようなこと”を言うのか」ときつく叱ったことがある。
「新五日市社」従業員
1988年5月にすずめのひなを殺し、焼いて食べようとするなど 得体の知れないところがあった。
 
その前年の暮れには、愛犬のペスの首を針金で絞めたことがあり、気味が悪いので できるだけ近寄らないようにしていた。
上の妹
1988年5月に、私が運転していて、うっかり兄の乗用車にぶつけたら、兄が激怒して殴る蹴るの暴行を受けた。
 
それ以前に「お兄ちゃんは車の運転が下手だから」と言ったときも、髪の毛を引っ張られ、背中を殴られたことがある。
宮﨑勤の父親
1988年12月に、何気なく息子に「集金した金が見当たらないが」と質したら、突然、私の髪の毛を掴んで前頭部を車のドアにガンガンぶつけるなど暴行を受けた。
 
室内に避難していたら、今度は言葉にならないような奇声を発しながら飛び込んできて、頭と肩を蹴りまくられた。
 
本当に狂っているような感じがして、生きた心地がしなかった。
 
私は慌てて車で逃げ出したほどだ。
宮﨑勤の母親
勤が短大生のころ、部屋を掃除して幼稚園時代の漫画本を片付けたら、ひどく怒って部屋に入れなくなった。
 
それでも週に一度は勤の目を盗むようにして、部屋のシーツなどを洗濯している。
 
1989年8月には、あまり仕事に身が入らないようなので「ビデオにかまけてないで、仕事しなさい」とか「知恵遅れと思われるから一生懸命働いて」と注意したら、拳骨でめちゃくちゃに殴られ、今でも右腕にあざが残っている。
 
気に入らないことがあると窓ガラスを叩き割ることもあり、事件を起こす前頃は、夜中でも平気でドタドタと大きな音を立てて家の中を歩くなど、怖くて迂闊に話しかけられない雰囲気だった。

どうやら事件直前の宮﨑勤は家族にも手がつけられないほど荒んでいたようだ。

そして1989年7月23日、宮﨑勤はわいせつ誘拐・強制わいせつで逮捕された。

はじめは誰もが単純なわいせつ事件だと考えていた。

しかしその後の宮﨑勤の自供により、一連の連続幼女誘拐殺人事件の全容が解明されたのだった。

宮﨑勤(みやざきつとむ)東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件 (117号事件)

 

宮﨑勤事件(東京埼玉連続幼女誘拐殺人事件) 年譜

19628/21宮﨑勤、誕生
196610月「先天性橈尺骨癒合症」と診断される
19863年間勤めた印刷会社を退職し、9月から家業を手伝う
19885/16入院していた祖父が死去
8/22入間市の今野真理ちゃん(4歳)が行方不明になる
10/3飯能市の吉澤正美ちゃん(7歳)が行方不明になる
12/9川越市の難波絵梨香ちゃん(4歳)が行方不明になる
12/15名栗村の山林内で絵梨香ちゃんの全裸死体が発見される
12/18宮﨑勤が父親に暴行し、大怪我で入院、翌年2月に手術
12/20絵梨香ちゃん宅に「絵梨香 かぜ せき のど 楽 死」と書かれたはがきが届く
19892/6今野真理ちゃん宅前に置かれた段ボール箱から歯や骨、拡大コピー紙片が見つかる
(拡大コピー紙片:真理、骨、焼、証明、鑑定)
2/7狭山署が「骨は真理ちゃんとは別人のもの」と誤発表する
2/10骨は今野真理ちゃんのものだとする今田勇子の犯行声明文が朝日新聞東京本社に届く
2/11同じ犯行声明文が真理ちゃん宅にも届く
3/11今田勇子の告白文が届く
6/6東京・江東区で野本綾子ちゃんが行方不明になる
6/11宮沢湖霊園のトイレ脇で野本綾子ちゃんのバラバラ死体の胴体発見
7/23八王子市内で幼女に対するわいせつ行為で、宮﨑勤が現行犯逮捕される
8/7宮﨑勤がわいせつ容疑で起訴される
8/9野本綾子ちゃんの誘拐殺人を上申書で自供
8/10宮﨑勤の自供に基づき奥多摩町山林から野本綾子ちゃんの頭蓋骨が発見される
8/11警視庁が宮﨑勤を再逮捕し、身柄を深川署へ護送
警視庁と埼玉県警の合同捜査本部設置
8/13宮﨑勤が今野真理ちゃん、難波絵梨香ちゃん誘拐殺人を自供
8/24宮﨑勤が簡易精神鑑定を受ける
9/1東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を警察庁広域重要指定117号事件に指定
9/5宮﨑勤が吉澤正美ちゃん誘拐殺人を自供
9/6宮﨑勤の自供に基づき五日市町の日向峰で吉澤正美ちゃんの遺骨と衣類を発見
9/8埼玉県警が宮﨑勤を今野真理ちゃん事件で逮捕し、身柄を狭山署へ護送
9/13宮﨑勤の自供に基づき今野真理ちゃんの遺骨を五日市町で発見
10/19宮﨑勤の身柄を東京拘置所へ護送
19903/30第1回公判
「幼女の両手は自分で食べた」と陳述
1991.1~1992.3第一次精神鑑定
1993.1~1994.11第二次精神鑑定
199411/21宮﨑勤の父親が多摩川で投身自殺(65歳没)
199610/7第36回公判で死刑求刑
19974/14第38回公判で一審(東京地裁)で死刑判決を言い渡される
即日控訴
20016/28東京高等裁判所で一審支持・控訴棄却の判決
7/10上告
2004奈良小1女児殺害事件の小林薫容疑者の「第二の宮﨑勤」の発言に対し「精神鑑定も受けずに、“第二の宮﨑勤”は名乗らせません」と批判
20061/17最高裁判所が弁護側の上告を棄却
5/1弁護側は判決訂正を求めたが、再度棄却
20086/17東京拘置所で宮﨑勤の死刑執行。45歳没
 
 
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