宮崎知子と赤いフェアレディZの 111号事件【富山長野連続誘拐殺人事件】

宮崎知子 111号事件 富山長野連続誘拐殺人事件

宮崎知子の生い立ち

 


 
宮崎知子は1946年2月14日、上新川郡月岡村(現・富山市)で生まれた。

2人の兄と姉1人の4人兄弟だったが、知子だけ父親が違っていた。

宮崎知子の母親は前夫に先立たれており、知子は未亡人になってから出産した子供である。

当時の知子の父親は妻帯者であり、父親が知子を認知したのは13歳のときだった。

そんな父親は知子を溺愛していたが、母親は知子には愛情を示さなかったらしい。

両親は生活保護を受けながら、自転車業を営んでいた。

宮崎知子はあまり目立たない生徒だったが、虚言癖がある子供だった。

知能指数は138と高く、中学くらいまでの成績はトップクラスだった

富山県立富山女子高等学校(現・富山県立富山いずみ高等学校)を卒業後、宮崎知子は県外の女子短大に進学を望んだが、家庭の経済状態から断念せざるをえなかった。。

そして高校卒業後、宮崎知子は富山市内の保険会社に就職したが そこを2~3ヶ月で辞めている。

1965年、宮崎知子は東京に憧れて家出し、東京で4歳上の自動車セールスマンと知り合った。

そして宮崎知子23歳のとき、その彼と結婚して埼玉に移住し、長男をもうけた。

1972年に宮崎知子は卵巣嚢腫になり卵巣摘出手術を受けたが、その闘病中に夫が浮気した。

さらに夫が会社の金の使い込みが発覚したため、一家は夜逃げや夫の転職により右往左往・・・そうしている間に夫婦仲は冷め、離婚に至った。

離婚した宮崎知子は1973年に富山市の実家に戻って 両親と息子の4人暮らしを始めた。

その後は宮崎知子は腹壁ヘルニアにかかって再手術、退院後すぐに父が死去したりといった波乱があり、宮崎知子は一家の生活費を稼がなければならなくなった。

宮崎知子は婚活のため結婚相談所に入会し、富裕な男を探す傍ら、生計のためにコールガールの仕事をしていた。

1977年9月、コールガール仲間から北野宏という男を紹介された。

北野宏は宮崎知子より6歳下、ハンサムな25歳の彼には新婚8ヶ月目の妻がいたが、宮崎と北野はすぐに同棲を始めている。

宮崎知子を一目見た北野宏は、宮崎の頭の回転の速さと都会的なセンスに惹かれ、彼女の知性に全幅の信頼を寄せてしまい、宮崎知子の真っ赤な嘘をそのまま信じ込んでしまった。

宮崎知子
父親が大地主の息子で、放蕩はしたけれど、かなりの資産を残してくれた。

だからお金には困ったことがないの。

1978年、宮崎は北野宏と共同で 100円ライターやマッチなどのギフト品を販売する「北陸企画」という店を経営し始めた。

商売をしていれば北野宏と一緒にいても不倫とは気づかれにくいからという理由からの起業である。

宮崎知子は積極的に営業に回っていたが 収入はたいしたことはなく、「北陸企画」はほどなく行き詰まり、経営は火の車だった。

借金返済の金策のため、1979年春、宮崎知子は結婚相談所で紹介された男性に9,000万円の保険金をかけ、殺害計画を立てていた。

その共犯に喫茶店経営の知人女性を引きずりこんでいる。

その男性にクロロホルムを嗅がせて眠らせてから溺死させる計画であったが、彼が「頭が痛い」と訴えるだけでいつまでたっても眠らなかったため、この計画はお流れになった。

その後、宮崎知子は新たに結婚相談所で知り合った男性から金を借りたり、北野宏の印鑑証明でサラ金から融資を受けたりを繰り返してやっと生活をしていたが、その反面、1979年8月には高級スポーツカーのフェアレディZを購入している。

宮崎知子
私のようなエレガントな女には、このくらいのグレードの車でなくちゃ

1980年以降は、宮崎知子と北野宏はうまくいかなかった商売を投げ出しており、朝からブラブラして遊んで暮らすようになっていた。

赤いフェアレディ280Zは店舗のショーケースを取っ払った場所に置いて、よく磨きあげていたという。

しかし、現実的には宮崎知子はこのとき、経済的にかなり追い詰められていた。

それを何とかするために、今度は「誘拐」を考え始めたのだった。
 
 
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111号事件~富山長野連続誘拐殺人事件

宮崎知子 富山長野連続女性誘拐事件via:naverまとめ

宮崎知子(当時34歳)と愛人の北野宏(当時28歳)は、富山市内で「北陸企画」というギフト商品店を営んでいた。

不倫関係の二人ではあるが、ワインレッドの日産フェアレディZを乗り回す長身のイケメンと知的な美人が、人目を引かないわけがない。

華やかに見える二人だったが北陸企画の経営はうまくいかず、2年目の1980年(昭和55年)になると次第に借金で首が回らなくなっていった。

当時は借金が300万円ほどあり、もうすぐ倒産するのも目に見えていた。

北野宏との関係を続けるためにも、宮崎知子にはまとまった金が必要だった。

そんな宮崎知子の脳裏に浮かんだのが、誘拐計画だ。

宮崎知子は富山県と長野県で二人の女性を身代金目当てで誘拐し、殺害した。

富山事件

1980年2月23日、宮崎知子は富山駅ビルで富山県八尾町の県立八尾高校3年・長岡陽子(18歳)さんに声をかけた。

赤いスポーツカーに乗った女性にバイトを紹介すると言われ、長岡さんは喜んでついていった。

その夜 宮崎知子は長岡さんを北陸企画に泊まらせ、翌日長岡さんの家に身代金要求の電話をかけた。

電話には耳が遠い祖父が出たため要領を得ず、こちらの要求が伝わったかどうかもわからない。

そうこうしているうちに、長岡陽子さんが家に帰ると言い出した。

脅迫電話をかけてしまった以上、長岡さんを帰すわけにはいかないし、誘拐事件として追及されることを恐れた宮崎知子は、長岡さんの殺害を決意した。

ドライブに連れ出し、睡眠薬を飲ませたあと、宮崎知子は長岡陽子さんを絞殺し、死体を岐阜県古川町の山中に遺棄した。
 
 
ところが宮崎知子は知らなかった、長岡陽子さんが母親に電話をかけていたことを。

長岡さんは2月24~25日に「富山市内の北陸企画の事務所にアルバイトに誘われ泊まった」と自宅に電話を入れていたのだ。

だから2月26日、心配した母親が警官とともに北陸企画にやってきた。

宮崎知子は「そんな女の子は知らない」とその場はしらを切ったが、もはや後戻りはできない。

だが、殺人がばれた場合、無一文では高飛びもできない。

そこで宮崎知子は、再度誘拐を決行することに決めた。

しかし、また富山でやるのは危険だ、長野あたりがいい。

犯行は単独でやるが、捜査の手が伸びてきたときには、北野宏にもかく乱の材料のなってもらおう。

そこで宮崎知子は北野宏にこんな話をもちかけた。

宮崎知子
東京の前夫からお金をもらうことになっているんだけど、立ち会ってくれない?

北野はそれを承知した。

犯行に目立つフェアレディZを使うのは危険だったが、車を変えたら北野宏に不審に思われるだろうし、疑われてはならない。

3月3日夕方、宮崎知子と北野宏はフェアレディに乗って富山を出発した。

3月6日朝、岐阜・吉城郡古川町戸市の数河峠近くの山林で長岡陽子さんの絞殺体が発見された。

長岡さんの首に巻きつけられていた紐は花結びにされていた。
 
 
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長野事件

3月5日、宮崎知子は北野宏を長野市内のホテルに残して、午後6時半頃、千石前バス停で長野信用金庫職員・寺沢由美子(20歳)を言葉巧みに車に誘い込んだ。

宮崎知子
このあたりに店を出す予定なので、若い女の子の意見が聞かせてもらえないかしら?

人質にしておくのは足手まといだから、先に殺してしまおう。

宮崎知子は寺沢由美子さんをお茶に誘ってしばらく話した後、フェアレディで郊外のレストランに食事に行った。

このあと3時間ほどドライブしたが、3月6日未明、宮崎は途中で寺沢さんに睡眠薬を飲ませ、眠りこんだ彼女の首を浴衣の帯(長野市内のホテルのもの)で絞め殺害し 遺体を長野県聖高原に遺棄した。

そして6日夕刻、宮崎知子は寺沢さんの家に電話をかけ、父親にこう言った。

宮崎知子
お嬢さんを預かっている。

明日10時までに3000万円を姉に持たせて 長野駅の待合室まで持ってきなさい

(ちょうどこの頃、長岡陽子さんの遺体が発見されている。)

3月7日10:00、寺沢さんの姉が10万円しか持ってきていないと知ると、宮崎知子は電話を切った。

宮崎知子
そんなはした金では 話にならない!

3月7日午後12時23分、再び 宮崎知子は寺沢さん宅へ電話した。

宮崎知子
午後2時までに2000万円用意して長野駅に来なさい

なんとかお金を工面して 姉が長野駅に向かうと

宮崎知子
4時38分発のあさま16号に乗って高崎駅で降りよ

受け渡し場所は高崎駅前の喫茶店を指定したが、宮崎知子は現れず、それきり電話をすることはなかった。

捜査陣の張り込みに気づいた宮崎知子が取引場所を2回変更したが、結局 宮崎は身代金を手に入れることができなかった。

宮崎知子は北野宏の質問に弁明しながら東京に行き、そして3月8日には富山に戻っていた。

富山、長野の両県警は2つの誘拐事件の手口が似ていることから、同一犯による犯行と断定し、この事件を「警察庁広域重要指定111号事件」に指定した。

2つの事件の犯行現場では、ともに眼鏡をかけた女と赤いフェアレディZが目撃されている。

捜査本部は「フェアレディZ」を所有している女性を調査し、富山市で贈答品販売店を営む宮崎知子と共同出資者の北野宏を犯人と断定し、3月30日に2人を逮捕した。
 
 
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宮崎知子は主犯か?従犯か?

当時の警察が描いたシナリオは主犯を北野宏、従犯が宮崎知子だった。

捜査官
女ひとりにできる犯行ではない。主犯は男だ

そう判断した捜査本部は、北野宏を連日きびしく取り調べた。

宮崎知子
北野から捨てられたくない一心で、私は彼の言いなりになった

宮崎知子は警察のシナリオにここぞとばかりに利用し、いけしゃあしゃあと嘘八百の供述した。

主犯にされてしまった北野宏は追いつめられ、自白調書に判を押させられる羽目になってしまった。

富山長野連続誘拐殺人事件の公判

しかしその後、北野宏は弁護士の助言により、公判開始後は自白は強制されたものだとして容疑を前面否定した。

北野宏
犯行に関しては一切感知していなかった。

自分は宮崎知子に言われて運転していただけだ。

ところが 法廷で荘証言された宮崎知子は「真犯人は別人である」として容疑を一切否認していた。
 
 
一審の富山地検の審理。

検察側は当初、富山事件も長野事件も殺害したのは北野宏で、死体遺棄は宮崎知子と北野宏の2人で行ったと主張した。

しかし、捜査では容疑を認めて自白した北野博が 裁判では一転して容疑を否認し、両事件とも宮崎知子の単独犯行であり、自分は無実だと主張した。

宮崎知子のほうは、長野事件のほうは検察の主張どおりで、富山事件は北野宏の単独犯行だと主張した。

そしてここで どんでん返しが起こる。

審理の途中で検察官は、主張を変更したのである。

検察側
両事件とも殺害・死体遺棄は宮崎知子の単独犯行であり、北野宏は共謀しただけである

そこからこの公判は、北野宏被告の共謀の有無が大きな争点となった。

審理は進み、1988年3月、富山地裁は両事件とも宮崎知子の単独犯行と認定し、宮崎知子に求刑通り死刑を言い渡した。

北野宏は無期懲役を求刑されていたが 最終的に無罪を勝ち取った。

裁判長
捜査・公判を通じ、種々の虚言をひるがえしては、男性被告に自己の責任を転嫁しようと試みている
 
 

宮崎知子は控訴し、名古屋高裁金沢支部で控訴審が行われた。

ここで宮崎知子は長野事件についてのこれまでの主張を変更し、殺害と死体遺棄は自分ひとりでやったと証言した。

宮崎知子の供述はよく変転したが、高裁は一審と同様の判断を示し、富山事件・長野事件の両件とも 宮崎知子の単独犯行として控訴を棄却した。
 
 

これを不服として、宮崎知子は上告。

宮崎知子は富山事件は北野宏が単独で殺害し、遺棄したもので、死刑は重すぎると主張した。

しかし1998年9月、最高裁も上告を棄却し、宮崎知子の死刑判決は確定した。

宮崎知子死刑囚は2017年8月現在で71歳、名古屋拘置所に収監されている。
 
 
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宮崎知子 111号事件 富山長野連続誘拐殺人事件