孤高死と孤独死!最期まで在宅を選んだ叔母を見送った体験談
50代男性 これは2017年から2019年にかけて、自分の意思を貫き通して孤独4した叔母の話です。
当時88歳の私の叔母には子どもがおらず、20年前に夫を亡くしてからはずっと一人暮らしをしていました。そのため、私の母が亡くなってからは、叔母の面倒を見るのは私(甥)だけになっていました。
叔母がアルツハイマー型認知症を発症して
そんな叔母の様子がなんだかおかしいと思い始めたのは、2017年の夏から秋にかけてのこと。月に1度は叔母の顔を見に家に行くことにしていたのですが、何だか家の様子がおかしいのです。
植物が好きでいつも庭をきれいにしていた叔母が、庭の花々を枯らしていることに違和感を覚えたのが始まりでした。
次第に物をたくさん買い込むようになり、冷蔵庫の中に腐らせたものをいっぱい詰め込んだままにしている様子を目の当たりにして、ようやく私は「叔母は認知症なのでは?」と考え始めたのです。
しかし検査を受けに病院に連れて行こうにも「私はどこも悪くない!」の一点張り。なんとか「市役所の検診を受ける」という口実で病院に連れ出して、医師に脳のMRIを取ってもらったところ アルツハイマー型の認知症であるとの診断を受けました。
「これでは一人暮らしは無理だ」と思った私は市役所に相談に行き、なんとか介護認定を受けさせました。
その後ケアマネージャーに相談にいき、私が支払いすることでヘルパーを週1回利用することとしましたが、その間も叔母の認知症症状はどんどん進んでいき、被害妄想が見られるようになってきました。
「ヘルパーがお金を盗んだ!もうくるな!」とヘルパーの訪問を拒否するようになり、ケアマネージャーやヘルパーからは「これ以上の一人暮らしは無理です。もう限界ですよ」と何度も言われました。
その通りだと私も思い、何度か叔母に
…と話しましたが、叔母曰く
私やケアマネージャーの施設入所の話を断固拒絶するので、もはや打つ手はなく、なんども被害妄想を繰り返してその都度ヘルパーを交代しながら、それでも叔母は一人暮らしを続けていました。
警察から叔母が亡くなった知らせが届いて…
2019年12月某日、私の携帯に警察から連絡が来ました。明朝に勝手口付近に叔母が倒れているのが発見されたとのこと。近所の人が通報した時には、既に亡くなっていたそうです。
叔母は昨日の夕方一人でタクシーで買い物に出かけ、帰宅した際に転倒してその場所で動けなくなり、誰にも発見させずにいたため低体温症から凍シしてしまったのです。
一種の不審シであるため、叔母の遺体は検視のために警察が引き取っていき、事件性がないことが明らかになってから数日で自宅に帰ってきました。シ亡後の手続きの諸費用は全て私が支払いました。
そう考えると、叔母にとってはこれで良かったのかもしれない…と私は思いました。
叔母のシ後事務処理は、遠くにいる叔母の兄弟や親類が高齢のため、連絡がなかなか取れなかったりして、かなり四苦八苦しました。
「先送りにしてはいけない」エンディングノートの後悔
私の中でひとつ心残りに感じて後悔したのは、叔母がいずれこうなることは「なんとなくわかっていた」のだから
実は 叔母が認知症と診断される少し前に、叔母のエンディングノートを私が聞き取りしながら書こうと思って準備をしていたのですが、忙しさにかまけて後回しにしてきたのです。
必要最低限の通夜、年金の支給停止、叔母のお骨は夫が眠るお墓に納骨し、遺産分割の手続きは親せきと話し合いながら行いましたが…これらが本当に叔母が望んだ結末だったのかもわかりません。
今考えると、私自身が「叔母はどういう人だったのか」をもう少し知りたかった…との後悔も感じています。
親しい家族が元気なうちから、エンディングノートを書くよう勧めておくのは、とても大切なことだと改めて思いました。
孤高死とは?孤高死と孤独死の違い
一人暮らしの高齢者というと、「かわいそう」「大丈夫なの?」と思われる人が多いかもしれません。でも、終末期の患者さんを一人で自宅に帰すことができる体制が少しずつ整ってきています。在宅緩和ケア医やソーシャルワーカー、ケアマネージャーと連携してサポート態勢を整え、本人がきちんと死を受け止めていれば、簡単にできてしまうものなのです。それまで一人暮らしができていたということは、周囲に支えてくれる人がいたということです。入院するとサポートしてくれる人と引き離され、かえって孤独になってしまいます。
一人暮らしの方の看取りは、ある意味簡単です。ご家族がいる場合、本人とご家族の希望の間で、医療者が板挟みになることが少なくありません。でも、一人暮らしだったら、ご本人の希望だけを聞いてあげればいいのです。
一人暮らしを楽しみ、自宅を愛しているお年寄りはたくさんいます。遠くに住んでいる娘や息子に「こっちに来て一緒に暮らそうよ」と言われても、好んで一人暮らしを続けていたりします。今の暮らしを変えることが死ぬより怖い。でも、そんな気持ちはご家族や病院スタッフにはなかなか伝わりません。
孤独死はかわいそう?いえいえ、本人は病院で死ぬほうがよっぽどイヤなんです。死ぬことなんか怖くない、自宅にいられないこと、無理やり病院に入れられることのほうがよっぽどイヤなんです。「孤独死」という言い方を改める必要があります。孤独死はかわいそうじゃない。一人で立派に自宅で死んだら「孤高死」と尊敬できるような社会になってほしいですね。
引用元:ライブドアニュース
「孤高死」とは自分の意思で選んだ結果である
Q とくダネで大原麗子さんについて笠井アナが「孤独(死)」じゃなく「孤高(死)」だと言っていましたが、孤高死という言い方は有りなんでしょうか?
A「孤独死」といった場合、「世間から見捨てられ誰も世話をする人も見取る人もなくたった一人でなくなった」というイメージが浮かびます。つまり、自ら望んだのではなく誰も関心を持ってくれないのでやむを得ず孤独になりひとりでひっそりと死ななければならなかったという状況です。
それに対して「孤高死」というと、「自らの意思で、あることを追求し続けるために、あえて一人になることを避けなかった。周りに受け入れてもらうことより、たとえひとりになっても自分が価値を置くものを守り追求するという生き方を自ら選んだ結果の一人での死」ということになります。
多分笠井アナは、大原麗子さんの「女優であることを最優先した。それが原因で離婚しなければならないこともあった。難病を抱えながら、一作一作を遺作になるかもしれないという覚悟で演じてきた」という生き方を知っていたから、見捨てられての一人の死というニュアンスのある「孤独死」という言葉は違うと感じたのでしょう。
引用元:Yahoo!知恵袋