小平義雄連続殺人事件

 
小平事件 小平義雄

小平義雄は戦争末期から敗戦直後にかけての混乱期、食料買出しや就職斡旋を餌に言葉巧みに若い女性を誘い出し、性的暴行をした挙句 殺害した殺人鬼である。 

1945年(昭和20年)~1946年 小平義雄連続殺人事件

1946年8月17日午前9時半頃、東京・芝の増上寺境内にある西向観音山の笹むらで、20歳くらいの全裸の女性死体が見つかった。

その死体の首には手ぬぐいを巻かれ、死後10日ほど経過していた。

この一帯は当時「闇の銀座」と呼ばれるデートコースだったので、痴情のもつれによる単なる殺人事件かと思われたのだが、付近の捜査が始まったとき、その様相は一変した。

死体発見現場から約18メートル離れた場所からもう一体、女性の白骨死体が発見されたのだ。

終戦直後の混乱期には行方不明事件はざらにあったし、新聞はあるにはあったが四頁の朝刊だけだったが、そんな状況でも、新聞報道を見た母親の届出により、2日後には全裸女性死体の身元も、容疑者の名前(小平義雄)もすぐに判明した。

どういうわけか容疑者である小平義雄(42歳)は 被害者・緑川柳子(17歳・以下敬称略)宅を実名で訪れていたからだ。

小平義雄
娘さんの就職の世話をしてあげよう

こういって緑川宅を訪れた小平義雄は、緑川柳子の母親に自分の住所まで告げていたため、小平義雄はその日のうちに逮捕された。

そして逮捕10日後には、第二の犯行を自供し、起訴されるまでの4ヶ月間に 小平義雄による連続強姦殺人10件が洗い出された。

10件というのは殺害容疑がある事件だけで、小平義雄はこの10件のほかに約30件の婦女暴行を行ったことを認めている。

小平義雄は抵抗した10名は殺したが、しなかった30名は殺害しなかったからと供述している。
  
 
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小平事件の犠牲者10人

殺害氏名・年齢場所備考
1945.5.25宮崎光子(25歳)東京・大井の海軍衣糧廠女子寮(悟空林)内憲兵隊の捜査が始まり、別の男に容疑がかかった隙を見て、小平義雄は勤めを辞め逃走
1945.6.23石井ヨリ(30歳)栃木県真名子村 山林内現金70円と腕時計を強奪。
9月10日に遺体発見。
1945.7.12中村光子(22歳)栃木県清洲村 山林内現金40円と腕時計を強奪。
1945.7.15紺藤和子(22歳)東京・清瀬村 雑木林内現金60円と下駄1足を強奪。
11月5日に白骨死体で発見。
1945.9.28松下ヨシ江(21歳)東京・清瀬村 雑木林内現金300円と縮緬洋服強奪
11月1日に遺体発見。
1945.11.1篠川達江(17歳)東京・渋谷東横デパート別館地下証拠不十分で無罪
1945.12.30馬場寛子(19歳)栃木県西方村元越路山 山麓現金130円とリュックを強奪。
1946.6.9頃阿部よし(15歳)東京・芝の運送会社 自動車置き場証拠不十分で無罪
1946.7.22頃氏名不詳(17~18歳)東京・芝公園西向観音山 裏山道証拠不十分で無罪
1946.8.6緑川柳子(17歳)東京・芝公園西向観音山 裏山道8月17日に遺体発見
 
このうち、篠川達江、阿部よし、氏名不詳の3人については小平義雄が関与を否定し、裁判でも証拠不十分になったため 無罪とされた。

小平義雄の生い立ち。小平も飢餓と混迷の時代に悪事を働いた日本兵の一人だった

小平事件では7人を殺害している小平義雄には前科がある。

新婚間もない頃、小平義雄の妻が実家に田植えの手伝いに行ったまま戻らないので迎えに行くと、妻の父や兄が妻を離婚させようとしていた。

その理由は小平義雄が妻との結婚前に遠縁の娘に手を出して 私生児を産ませていたことがわかったからだ。

これに逆ギレした小平義雄は 鉄棒を持って妻の実家を襲撃し、義父を撲殺、ほかの7人にも重症を負わせている。

なので、小平義雄の生涯殺害数は8名ということになる。

この事件で小平義雄は懲役15年を言い渡されているが、二度の恩赦にぶつかって懲役6年半に減刑され、1940年9月に仮出獄している。

その後1943年8月、連続殺人の最初の事件現場である海軍衣糧廠のボイラーマンとなり、翌年再婚した。

海軍衣糧廠のボイラーマンも、町工場のボイラー係も、サイパンで8ヶ月ほど飛行場建設に携わったのも、すべて前科を隠したり、軍隊時代の階級を偽っての就職だった。

小平連続殺人事件の1人目の犠牲者、宮崎光子(25歳)殺しは 小平義雄が日ごろから関心を寄せていた宮崎に関係を迫ったところ騒がれ、「寮長や上官に詐称がバレれば軍法会議だ」という恐怖から、思わず首を絞めて殺害して、防空壕に隠したものだった。

宮崎光子の遺体が発見されて憲兵隊の捜査が始まり、別の男に容疑がかかった隙を見て、小平義雄は勤めを辞め、逃げた。

この宮崎光子殺しは小平義雄にとっては突発的な番外編で「自分に自制心があればしなかった」と供述している。

が!この殺しによって小平義雄は その時まで自分も知りえなかった殺人の快感を味わってしまったのだ。

殺しの快楽を知ったことと、警察当局の捜査の不徹底が 小平義雄を第二、第三の犯行へと駆り立てていった。

戦災で荒廃した当時の食糧不足や就職難などの相手の事情に合わせて 小平義雄は言葉巧みに女性を誘い出していった。

食料探しに血眼になっている女性たちには

小平義雄
米を安く売っている農家を知っている。いっしょに買出しに行こう

・・・と声をかけ、自身が出身で土地勘がある栃木県や埼玉県の山林に女性を誘い込んだ。

冒頭に出てきた増上寺の白骨死体は、小平義雄が品川駅で誘った15歳の少女・阿部よしであると判明している。
 
 
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小平義雄は1905年(明治38年) 栃木県日光市の小さな宿屋を営む家に生まれた。

小学校を出て店員や工員をしたあと、19歳のときに海軍に志願し、横須賀海兵団に入った。

1929年(昭和3年)に山東出兵、済南事件に海軍陸戦隊員として参加した小平義雄は、戦地では日常的に強盗と強姦を繰り返していたという。

そしてそれが小平義雄の性的嗜好を決定したのかもしれない。

小平義雄
強盗強姦は日本軍隊につきものですよ

確かに平時には絶対に許されないことも、戦時にはまかり通ってしまったことは多々あった…日本の黒歴史だ。

そんな小平義雄は勲八等旭日章をもらい、三等機関兵曹として除隊している。
 
 

1932年(昭和7年) 小平義雄はお見合い結婚をしたが 私生児(遠縁の娘が産んだ小平の子)がいるのがバレて 妻は4ヶ月で実家に帰ってしまった。

それに激怒した小平義雄は妻の実家に押しかけて傷害や殺人事件を起こし 懲役15年の判決を受けた。

ところが二度の恩赦に与かり、1940年(昭和15年)に仮出所。

1944年、小平義雄は再婚し、品川の海軍衣糧廠に就職し、1945年に妻子を富山県に疎開させて、自分は海軍衣糧廠に寄宿していた。

そこで海軍衣糧廠で退職の挨拶に来た女子挺身隊員・宮崎光子を襲い、殺害。

これが小平事件の発端で、その味が忘れられずに、小平義雄は次々と犯行を重ねていった。
 
 

1946年(昭和21年)3月から、小平義雄は芝の米軍兵舎で用務員として働き始めたが 悪癖はやまず。

8月6日に緑川柳子を増上寺の山内に連れ込んで殺害。

しかし、これが決め手となって小平義雄は逮捕された。

1947年6月18日、一審死刑。

1948年2月27日、控訴棄却。

1948年11月16日、上告が棄却され、小平義雄の死刑が確定。

死刑が執行されたのはそれから11ヵ月後の、1949年10月5日だった。

執行直前、小平義雄は饅頭を3つと「ひかり」を一服し こう言った。

小平義雄
この期に及んで 何も言い残すことはありません

宮城刑務所で死刑が執行されたが、最後まで泰然たる態度だったといわれている。
 
 
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