市川一家4人殺人事件 (関光彦死刑確定囚)

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市川一家4人殺人事件 関光彦

市川一家4人殺人事件

1992年3月5日午後5時頃、関光彦(せきてるひこ・当時19歳)は千葉県市川市の民家に強盗目的で侵入した。

市川一家4人殺人 関光彦

via:【市川一家4人殺人事件:関光彦】事件現場(大島てる)

 

関光彦は「市川一家4人殺人事件」を起こす1ヶ月前、この家の長女A子さんにわざと車をぶつけ、介抱するふりをして自宅マンションに連れ込み強姦していた。

そのときに口封じのためにA子さんの生徒手帳から彼女の自宅の住所をメモしていた。

当時、関光彦は風俗店とトラブルになっており、暴力団から慰謝料として200万円を要求されていたため、A子さんの家に押し入って金を奪おうと考えていたのだ。
 
 
3月5日午後5時前、関光彦はA子さんの自宅へ押し入った。 

関光彦はまず、寝ていたA子さんの祖母を絞殺した。

その後、帰宅したA子さんとその母親を包丁で脅し、母親のみを刺殺した。

通帳類の保管場所がわからないため、関光彦はA子さんの父親の帰宅を待った。

A子さんの父親が帰宅すると関光彦は包丁で父親の肩を刺し、脅して通帳を奪った。

さらに別名義の通帳があることを知った関光彦は、A子さんを連れて両親が経営する編集プロダクションに向かい、A子さんに嘘をつかせて 社員から通帳を受け取らせた。

その間に関光彦はA子さんの父親のところに戻り、背中を刺して殺害していた。
 
 
翌朝、A子さんの家に戻った関光彦は、A子さんの4歳の妹が泣き出したのに腹を立てて背中を刺し、首を絞めて殺害した。

それを止めようとしたA子さんにも切りつけ、怪我を負わせたところに警官が踏み込んで、関光彦を取り押さえた。

通帳を受け取りにきたときにA子さんの様子がおかしいことに気づいた社員が警察に通報したのである。
 
 
関光彦は、自分が未成年だから死刑になるはずがないとたかをくくっていた。

「これで少年院行きか」くらいの認識しかなかったという。
 
1989年の綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人のように「あれだけのことをやっても少年だから死刑になってない」と自分の犯した犯罪を軽く考えていた。

ところが、そうは問屋がおろさなかった。

判決公判では「犯行は残虐かつ冷酷。金目当てに何の落ち度もない4人もの命を理不尽にも奪おうという身勝手な動機で、たぐいまれな凶悪犯罪」と断罪され、死刑判決が下された。

関光彦は控訴したが、高裁、最高裁ともに棄却され、死刑が確定した。

少年犯罪での死刑判決は1968年の連続射殺事件の永山則夫以来だった。

事件当時は死刑廃止を求める議論が活発化していたため、世間の注目が集まる中での死刑判決だったが、この事件は誰が見ても死刑判決以外の刑は考えられなかっただろうと思う。
 
 


 
 

関光彦(せきてるひこ)の生い立ち

関光彦は1973年1月生まれ。

この事件を起こしたときには19歳だった。

祖父は鰻屋チェーン店のオーナーで その娘(関の母親)は博打で借金を重ねるろくでなしの男を選んだ。

そのろくでもない父親は借金まみれなだけではなく、妻と息子にも手を上げるクズだった。

関光彦が9歳のとき父の借金が億を超え、その返済のために祖父は資産のほとんどを失い、一家は貧乏暮らしを強いられるようになったという。
 
その後両親は離婚し、光彦の家族は祖父にも絶縁を言い渡された。
 
 

関光彦は成長とともに母親や弟に暴力を振るうようになっていった。

一応高校へは進学したものの、恐喝などで2年の5月に高校を自主退学している。
 
その後、しばらくは祖父の鰻屋で働いていたが、暴力は相変わらずで、祖父の店を半年足らずでやめ、夜の街のバイトを転々としていた。

遊ぶ金が足りず、関光彦は祖父の店へ侵入し120万円、そのひと月後には6万円を盗んでいるが、金を盗んだことを咎められた際、光彦は祖父の顔面を蹴り上げ、眼球破裂で失明させている。

それ以後も関光彦は日常的に恐喝や暴行・傷害・強姦などを繰り返した。
 
 
関光彦は18歳でフィリピン人女性と結婚したが、妻は3ヶ月弱でで母国へ帰ってしまっていた。
 
それがおもしろくなかった関はフィリピンパブで働く女性を店には無断で連れ出してアパートへ無理矢理泊めた。

ところがこれが経営者にばれ、経営者からヤクザ経由で 関光彦は風俗店に200万円の慰謝料を請求された。
 
関光彦がA子さん宅へ押し入ったのは この金策のためだった。
 
 
2017年8月現在44歳の関光彦・死刑囚は、現在東京高拘置所に収監されている。
  
 
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