【日野OL不倫放火殺人事件】北村有紀恵の毒の木

北村有紀恵 日野OL不倫放火殺人事件

あの放火殺人事件は1993年(平成5年)12月14日午前6時20分に、東京日野市の公団住宅の一室で起きた。

北村有紀恵 日野OL不倫放火殺人事件

via:事件現場(大島てる)

 

北村有紀恵はガソリンが入ったポリタンクと5本のペットボトルをビニール袋に入れて住宅の階段を駆け上がった。

そして室内に入るとガソリンを床にまき、ライターで火をつけた。

ガソリンだけに引火性は凄まじく、一気に約40平方メートルの室内が火の海になり、爆発も起きた。

当時、消火に当たった消防隊は、凄まじい黒煙と炎がベランダから噴出し、手の施しようがなく、ほぼ全焼だったと語った。

焼け落ちた室内から4歳の女の子と1歳の男の子の焼死体が発見された。

亡くなった子供たちの父親・原田幸広(当時37歳)は通勤するため妻の運転で駅に向かっていて、その一瞬の隙に悲劇が起きた。

その朝、原田夫婦は自分たちが見張られていることに気づかなかった。

夫婦の乗った車と入れ違いに、グレーのトヨタ・コロナ・エクシブが高幡台団地36号棟そばに停車した。

ハンドルを握っていたのは北村有紀恵だった。
 
 
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北村有紀恵 日野OL不倫放火殺人事件
 
放火事件から約2ヵ月後の1994年(平成6年)2月6日午後、北村有紀恵は父親(65歳)に伴われて警視庁・日野署に出頭した。

警察は「原田幸広との2年近い交際で、北村有紀恵が怨恨を抱き、計画的に放火殺人に至った」と判断した。

地検もこの通りに起訴し、八王子地裁での一審で、北村被告は無期懲役を言い渡された。

北村有紀恵は裁判では殺意を否認し、心神耗弱による犯行として減刑を主張し、控訴。

もちろん北村有紀恵の弁護団も 原田幸広との不倫の関係が放火殺人の原因だとしているが、弁護団が報道各社に控訴理由書を示した。

弁護団
北村有紀恵被告は火事で亡くなった二人の子供の父親との二年間に渡る交際の間に、彼の子供を二度にわたって妊娠し、二度とも中絶しました。
 
しかし彼は北村有紀恵被告に「結婚しよう。一緒にがんばっていこう」と言っており、彼女はこれを信じていましたが、結局破局を迎え、その際、相手方は誠意のある対応をしませんでした。
 
北村有紀恵被告は破局とそれに続く精神的なダメージ、結婚の約束を信じていたときには耐えることができた中絶の負い目などから立ち直ることができず、正常な思考能力を失ったまま事件を起こしてしまいました。

そして弁護団は、一審での事実誤認と量刑不当を訴えた。
 
 
北村有紀恵被告は一審段階で一部のマスコミから 二人の子供にガソリンをかけたと報道されていた。

弁護団は、そのようなことはしていないことはもちろん、子供たちが寝ていた部屋にもガソリンをまいていないと主張したが、一審判決では子供たちが寝ていた部屋にもガソリンをまいたと認定された。

北村有紀恵被告は亡くなった二人の子供を焼き殺そうと考えて放火したのではなく、殺意はなかったと主張する。

また、子供たちが死ぬような事態になるとも思っていなかった。

しかし一審では子供たちを殺すつもりで放火したと確定的な殺意が認められた・・・これは北村被告の気持ちとは著しく異なるというのだ。

北村有紀恵被告が事件当時、心神耗弱の状態にあり、前後の状況や事の重大性を正しく判断できないまま放火に至ったのだが、それが理解されていないと主張する。

しかも一審では、二度の精神鑑定を申し立てしたにもかかわらずそれが認められなかった。

北村有紀恵被告がここまでの行為に及ばざるを得なかったのは 不倫関係にあった亡くなった子供たちの父親の無責任な態度によるところが大きいと考えられるのに、それらを考慮したとすれば、無期懲役という一審の判決は重すぎる・・・と刑の軽減を主張していた。

北村有紀恵が最高裁まで争った点は「殺意の有無」だった。

つまり「生きている子供にもガソリンをかけたかどうか」と「事件当時、精神的に追い詰められて心神耗弱状態に陥っていた」という2点である。

しかし上告は棄却された。

北村有紀恵
裁判所はたったこれだけの言葉で、嘘に嘘を積み重ねた検察ストーリーを肯定し、私を無期懲役にする。

北村有紀恵の主張もわからないでもない。

でも、仮に北村の主張が認められたとしても、二人の子供が放火で亡くなったという事実に変わりはない。

ガソリンをまいて火を放つという行為が誰かを殺さないもない。
  
 
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1966年8月7日、北村有紀恵は東京の下町で 印刷業の父親と平凡な母親の間に生まれた。

中学・高校と山脇学園に進み、成績は優秀で、そのまま山脇短大に進まず、難関の都立大学理学部数学科に現役合格している。

大学の同級生
北村さんは頭脳明晰で多くの男子学生から注目されていた。 
 
性格は明るく几帳面で何事にもまじめに取り組むタイプだった。
 
幼い頃からのしつけもきちんとできていて、かといって気取るお嬢さんでもなかった。
 
大学では学科に女性はほんの一握りしかおらず、それだけに北村さんに交際を迫る男子生徒はいましたが、はっきり交際するといった意思は彼女にはなく、これといって決まったボーイフレンドもなかった。

そして北村有紀恵は大手電機メーカー「NEC」に総合職(技術系)として入社し、エリートOLの道を進んでいこうとしていた。

数ヶ月の研修を終えた北村有紀恵は、東京・府中の配属になり、汎用コンピュータソフトの開発を担当した。

ここで北村有紀恵は、後に不倫相手として悩み苦しむことになる原田幸広と出会う。

原田幸広は関連子会社から配属となり、職場では若手を指導する立場で、北村有紀恵の上司だった。

原田幸広は九州出身で、地元の工業高校を卒業した後、1977年にNECの子会社に入社した。

北村有紀恵と出会う3年前(1986年)に妻と出会い職場結婚していた。

コンピュータソフト部門の開発には残業がつきもので、仕事をまじめにこなす北村有紀恵と原田幸広の距離が狭まるのに時間はかからなかった。

北村有紀恵は原田幸広のことを「師匠」と呼び、原田は北村のことを「キャッシー」と呼んだ。

キャッシーとは北村有紀恵が幼い頃の遊び仲間がつけた愛称だったという。
 
 
1990年3月、原田幸広は府中の技術センターに異動になった。

1990年8月、仕事に慣れた北村有紀恵は下町の実家から2時間ほど費やして通勤するのをやめ、日野市内にアパートを借りて一人暮らしをはじめた。

1990年10月、北村有紀恵はたまたま原田幸広と職場で再会し、原田から「今度デートしよう」と誘いを受けた。

そして二人は東京ディズニーランドでデートをした。

北村有紀恵
原田さんの子供も当然一緒かと思っていました。
 
1990年12月の第二月曜日。
 
デートのことは同僚たちに変に隠すつもりがないので話しました。
 
原田さんもそのことを奥さんに言っているものだと思っていました。

でも、いざディズニーランドに行ったら原田さんは平然とした顔で「今日は研修センターで会議があると嘘を言って来た」というので、本当に驚きました。

その後の二人は、しばらくこれといった変化もなく、通勤時などに近くの駅で顔を合わせる程度だったという。
 
 
1991年4月、北村有紀恵は通勤帰りの駅で、原田幸広と顔を合わせたが、いつになく原田の顔に明るさがない。

原田幸広の妻が流産したという話だった。

原田幸広
立川の病院、ひどいんだよ。
 
「死んでますね、掻き出しましょう」と言われてね
北村有紀恵
ショックですね。
原田幸広
妻の体調が悪いから、田舎に帰そうかと思って。
北村有紀恵
じゃあ、おひとりで食事とか大変ですね。
原田幸広
何とかできるから。来週一週間は独身だ。

そこで二人は来週、どこかに飲みにでも行こうということになり、焼き鳥屋や寿司屋などで食事をした。

北村有紀恵の原田への同情という形で、二人の関係が新密度を増していったのがこの頃だ。

原田幸広の住む公団住宅と、北村有紀恵が一人暮らしをするアパートは小高い丘をはさみ、直線で数キロしか離れていなかった。
 
 
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北村有紀恵は原田幸広とデートはしていたものの、上司と部下の関係は決して崩すまいと思っていたと言っている。

一審・二審の公判で北村有紀恵は原田幸広との不倫関係をこう話していた。

北村有紀恵
男女の関係になることは何度も理性で何とかなると思っていました。
 
けれど原田さんの「妻と別れて結婚する」という言葉の重さに負けてしまったような気がします。

1991年8月6日、北村有紀恵の25歳の誕生日前日、二人は多摩川の花火大会を見た後、男女の仲になった。

これをきっかけに二人の関係は加速していき、原田は北村有紀恵のアパートに泊まることもあった。

原田は妻には「残業が続いて」と理由をつけて、週末でさえ何度となく北村有紀恵のアパートに外泊するようになっていた。
 
 
1992年4月、北村有紀恵は妊娠した。

慌てて北村のアパートに駆けつけた原田幸広は「ごめん」と謝りはしたものの

原田幸広
今、産んでもらうわけにはいかない。すぐ堕ろしてくれ。

北村有紀恵は妊娠5週目だったがが、翌5月上旬に中絶手術。

5月23日、中絶のショックもまだ癒えていない北村有紀恵に、さらにつらい出来事が起こった。

北村有紀恵の実家に近いグラウンドで会社のソフトボール大会があり、その日の朝「キャッシー、来てくれるんだろう」と原田は北村を誘った。

実家に帰る予定があったので、北村有紀恵はグラウンドに足を運んだ。

そこに、なんと原田は長女と、大きなお腹を抱えた妻を連れてきて、北村有紀恵に引き合わせたのだ。

北村有紀恵
ほんの2週間前に中絶した私のことを、この男はどう考えているのだろう。
 
わざと大きなお腹の奥さんを見せびらかして、どういう神経をしているのだろう。

あまりの衝撃に北村有紀恵の足は震え、実家に帰る途中で気分が悪くなり、胃の中の物を吐いてしまったという。

そして原田は翌日「妻を紹介したのは、わざとじゃないんだから…」と北村有紀恵に許しを乞うた。

北村有紀恵
私が奥さんのあの大きなお腹を見て平気でいられると思うの?
 
お風呂から上がると、今でも胸から白く濁ったものがポタポタと落ちるんだよ。
 
師匠にはなんでもないことだったの?
 
私がそのすぐ後、どんなつらい目にあうのか考えられないの?
原田幸広
すまない。許してくれ。
北村有紀恵
じゃあ師匠、奥さんと別れてよ。
原田幸広
今、即答はできない。少し考えさせてくれ。
 
 
1992年7月、原田幸広の妻が二人目の子供を産むために、東北地方の実家に里帰りをした。

妻が里帰りをしている間、原田は何かと理由をつけて北村有紀恵のアパートに泊まっていた。

妻の留守をいいことに、原田は約1ヵ月半もの間、夫婦気取りで生活していた。

北村有紀恵
奥さんが実家から帰ってきたら、また何事もなかったように生活するの?
原田幸広
そんなことできないよ。それじゃただの浮気になる。
 
キャッシーとはそうじゃないでしょ。

この頃は原田幸広の妻は夫の浮気に気づくことはなく、原田も何食わぬ顔で二人の子供が待つ家庭に帰っていった。

このときの精神状態を、北村はこう語っていた。

北村有紀恵
堕ろした子供のために欠かさず飾っていた花が、この頃は仕事が忙しく数日切らせてしまい、そのせいか夜中に子供が出てくる気がする。
 
寝ている私の身体の上に子供が乗っかってきたり、床をパタパタと走り回ったり、声が聞こえる。
 
妊婦や小さな子供を見るのが嫌になってくる。
 
 
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1992年の暮れ、原田幸広は実家の九州への帰省前に、北村にこう言った。

原田幸広
家族と帰るのは今度の正月が最後だと思っている。
 
来年になったら事を起こす。今は時期じゃない。
 
寂しい思いをさせているけど、来年になったらキャッシーと一緒になりために事を起こすから。
北村有紀恵
信じていいの?
原田幸広
うん。だから今は我慢して。

しかし年が明けても、原田の言う「事」は起きなかった。

「愛している」と書かれた年賀状が一度に4通、北村有紀恵の元に届いただけだった。
 
 
1993年2月末、2人は伊豆高原に旅行した。

そして3月。

原田幸広
長女の幼稚園が休みに入る3月19日までには、離婚の話をするつもりだから。
 
だって、そうしなくちゃ、前に進めないじゃないか。

実はこのとき、北村有紀恵は二度目の妊娠をしていた。

ところが北村有紀恵は 2度目の妊娠を理由に原田に離婚話を積極的に進めさせることはしなかった。

それは原田の「4月5日には決着をつけたい」という言葉を信じていたからだ。

しかしこの期日をすぎても、原田幸広の態度に変わりはなかった。

北村有紀恵は、やはりこのような状態では・・・と、自ら4月9日を中絶の手術日とひそかに心に決めていた。

そんな北村の心の葛藤も知らずに、原田はこんなメールをのんきに送ってきた。

原田幸広からのメール
どんなあんばいのしゃぶしゃぶにしようか。
 
鍋あるし、コンロやボンベも準備万端!あとはお肉!
 
肉以外のものは?人参?白菜、きのこ、ポピュラーなものはこんなものかな、あとはなんだろう?
 
思い浮かばないや、明日にでもまた協議しあいましょう。
 
じゃあ、また明日。バイバイ。
 
 
4月9日、北村有紀恵は中絶手術をした。

北村有紀恵
二回も中絶したら、子供ができなくなると医者に言われましたが、いろいろと考えた末、中絶をしました。
 
その後体調が悪くなって、子供ができないのかもしれないと真剣に考えて、悲しい気持ちになりました。

4月11日に原田幸広がアパートに来たが、北村は手術のことを話さなかった。

北村有紀恵
原田さんの奥さんが里帰りして二番目の子が生まれたのを聞いたのは本人からではなく、別の課の人からでした。
 
ああがっかりと、一度は別れを考えました。
 
それができなくて、そういう状態に耐えられなくて、死んでしまおうと思って、アパートで包丁を持ち出しました。
 
そばにいた原田さんが目を覚ましたのでやめてしまいました。
 
出口がなくて、耐えられませんでした。
 
 
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1993年5月18日。

ついに!なのだが、偶然としか言いようのない些細なことで、原田幸広と北村有紀恵の不倫が妻に知られてしまう時が来た。

原田の妻が長女を幼稚園に送った後、前の晩に電話をかけた友人に再び連絡を取るため「リダイヤル」のボタンを押した。

「はい、北村です」の声が返ってきた途端、聞き覚えのあるその声に 妻は夫の浮気にはじめて気がついた。

妻はすぐに会社に電話をいれ、夫を呼び戻した。

そして原田は北村有紀恵との不倫を、妻に全て告白してしまう。

妻はその場で夫を土下座させ、平手打ちを浴びせ、原田は「気が済むまで殴ってくれ」というのがやっとだったという。

そしてこの後、北村有紀恵と原田夫人の間で何度も口論の電話が繰り返された。

そのたびに原田夫妻にもけんかが絶えなかった。

妻からビンタを食わされたときのことを法廷で尋ねられたとき

原田幸広
妻に気合を入れてもらっていた。

・・・のらりくらり、優柔不断が服を着て歩いているような男だと思う。

北村有紀恵証言
(一審・第11回公判)原田幸広さんは奥さんに怒られると「別れる」と言いに来る。
 
私がそれを押し返すと「もうだめなんだよぅ、もう夢もだめなんだよぅ」と電話口で半分泣いていました。
 
すると奥さんが電話口に出て「主人が別れるって言ってるじゃないの!うちの人は何ひとつ自分では決められない人なのよ!」と。

・・・かと思えば、原田はまた北村に対し

原田幸広
やっぱり別れない。その証として、俺の身体に傷をつけてくれ。
北村有紀恵証言
(一審・第11回公判)原田さんは「優柔不断なようだけど、キャッシーといるとキャッシーのほうに強く惹かれるんだけれども、うちにいるとやっぱりうちの方になびいてしまって、ふらふらしてしまうんだ」と。

そのたびに北村有紀恵と原田夫人は、数時間に及ぶ長電話で、互いの言い分をぶつけ合い、事態は泥沼化していた。

不倫の果てに二度の中絶を知った原田夫人は、北村有紀恵に痛烈な言葉を浴びせたと、北村有紀恵は言っている。

原田幸広の妻
あんた(=北村)は生きている子を平気でお腹から掻き出すような人なのよ!

この発言については公判でも取り上げられている。

弁護人質問
あなたは1993年7月26日、原田夫人と電話で会話をしましたね。
 
例の言葉(お腹から掻き出す)を言われたとき、どう感じましたか?
北村有紀恵
部屋の四角いもの(ドアや冷蔵庫など)がゆがんで見えました。
 
頭の中でゴーッという音がしました。
 
その言葉が存在するのがまったく信じられず、何もいえませんでした。
弁護人質問
その後、被告は体調を崩しましたね。
北村有紀恵
はい。食事ができなくなって、1日中体が震え、ものすごい下痢になりました。
 
少し食べてもそのまま口から出てきてしまって、60キロあった体重が1週間から10日で40キロ台になってしまいました。

北村有紀恵被告の弁護団は、北村被告が中絶後、幻覚・幻聴を感じ、体重が激減したと証言し、専門のカウンセラーに依頼し、裁判所にもその鑑定書を提出している。

「どうも当時、北村被告は産後のうつ症候群にも酷似した、いわゆるマタニティブルーの状態にあったようだ」と、放火による二人の子供への殺意を疑問視している。

 

放火殺人の核心部分については、北村有紀恵もはっきり覚えていない、と言っている。

北村有紀恵
子供が寝ていた四畳半のふすまを開けたかも、はっきり覚えていない。
 
四畳半の間を開けたような気もするが、何か部屋全体がどんよりと暗く、気味が悪いような記憶しか残っていません。
 
もちろん、子供の顔も見ていません。
 
コタツ付近にガソリンをまいたことは覚えていますが、その後のことは何がどうなったか、はっきり覚えていません。

北村有紀恵がライターでガソリンに点火したとき、彼女は猛烈な爆風でコタツのあった居間から玄関口のドア付近まで吹き飛ばされていた。

その後、アパートに戻った北村有紀恵は、昼のニュースで二人の子供が焼死したことを知った。

控訴審中の拘置所で、北村有紀恵は自分自身についてこう綴っている。

北村有紀恵
自分の中にはえている「毒の木」を、目をそらすのでも、切り捨てるのでもなく、存在を認めて、存在を感じながら、「毒の木」自体の性質を変える、そんなことを目指していたのに、いつの間にか毒が回っていた、そんな感じです。

北村有紀恵は裁判で殺意を否認し、心神耗弱による犯行として減刑を主張したが、最終的に最高裁で無期懲役が確定した。
 
 
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原田幸広の妻は「お腹の子供を掻き出す」発言について、周囲にこう言っている。

原田夫人
そんな言葉は言ったことがなく、北村さんの誤解だ。

後に原田夫人がインタビューで証言した内容によると、原田夫人は北村有紀恵に「生きている子供を平気で掻き出す人」というようなことは言っておらず、自分が流産した時に医者に「お腹の子供を掻き出す」といわれて傷ついた体験を話し「堕胎のつらさはわかる」と慰めたのを、北村が自分への侮辱と勘違いしたのではないか、という。

原田夫人
「お腹の子供を掻き出す」は勝手に言葉を独り歩きさせています。
 
私は二番目の子を流産させてしまったとき、産科の女医に「お腹の子供を引っ掻きだす」と面と向かって言われたんですね。
 
私はすごいショックを受けて、その話を彼女にもしました。

流産しているから、子供を堕胎するつらさはわかるつもりだと。
 
ところがいつのまにか、私がああいう発言をしたことになっていて…。
 
彼女の言うことをいちいち否定してみせてもしようがないと諦めました。

北村有紀恵は電話だけの応酬では飽き足らず、事件の4ヶ月前に弁護士の元を訪れ、訴訟の準備まで始めた。

それによって会社にも不倫が知れ渡り、北村の両親も巻き込んで もはや後戻りできない状態になっていた。

原田夫人
訴訟まで起こすことはないじゃないかと、全部もとにあった状態に戻るのがいちばんいいじゃないかと説得しました。
 
でも話していても埒があかないので北村のお父さんに電話して「私は不実をした夫を許すように努力しています。これからもがんばって二人で生活を立て直していきたいんです。だからお父さんは有紀恵さんを説得してください。これからは本人同士ではなく、私とお父さんが代理人になって話をしましょう」といいました。

ところが北村有紀恵は家事調停に踏み切った。

これまでも原田との交際に傾斜していく北村有紀恵を会社の親しい同僚たちが心配し、深入りしないように忠告してきたというが、それらを北村は意に介さなかった。

しかし家事調停で北村自身の口から「恋愛に積極的だった自分」という側面は語られることはなかったという。

そして調停中の1993年12月、北村有紀恵は原田さん宅に火を放つという凶行に出た。

北村有紀恵は夫の浮気に逆上した妻が、中絶の精神的ストレスが癒えない自分に向かって「子供を抱いたときのあの気持ちは・・・」と勝ち誇ったように自慢したうえ、「生きている子供をお腹から掻き出すような人なのよ、あなたは!」と侮辱したと主張し、そのせいで悶え苦しみ、それにより心神耗弱に陥って犯行にいたった、と法廷で切々と訴えた。

真実は当事者にしかわからず、ましてや第三者としては どちらが本当のことを言っているのか判断するのも難しい。

そんな中はっきりしていることは、これは不倫の面のみを強調して報道されたため、極端な被害者バッシングが起こった事件だったということ。

北村有紀恵を追い込んだ原田夫妻にも責任があるとして、彼らに対して世間の非難が集中したのだった。

その結果、原田幸広は会社を退職し、妻とともに追われるようにして町を出て行った。

現在、原田夫妻は東北の街で、事件後に生まれた子供二人と、4人で暮らしているという。

不実の限りを尽くした夫とともに!?しかも、また子供までもうけていることに対して、原田夫人は知人らにこう語ったという。

原田夫人
亡くした子供の悲しみを理解できるのは夫しかいない。
 
 
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