国松長官狙撃事件は、1995年に起きた平成最大の未解決事件として知られています。2025年1月16日放送の『林修の今知りたいでしょ!』では、事件から30年目の真相に迫りました。
なぜ警察のトップが狙われたのか。犯人は何を目的としていたのか。長年のミステリーとされてきたこの事件の背後には、ひとりの男が描いた壮大な計画がありました。
テレビ朝日の30年に及ぶ取材で、ついに明らかになった真相。それは「オウム真理教から日本を守る」という独自の使命感から計画された驚くべき犯行でした。チェ・ゲバラに心酔し、アメリカで射撃の腕を磨いた中村泰。彼は警察の対応の遅さに業を煮やし、自らサティアンに単独突入することさえ考えていたのです。
この記事では、『林修の今知りたいでしょ!』が明かした衝撃の事実を、以下のポイントから詳しく解説していきます。
犯人・中村泰が持っていた驚きの経歴と革命への思い
オウムから日本を守るために警察トップを狙った真の目的
なぜ警察は真犯人を逮捕できなかったのか
時効から15年、そして中村の死後に明かされた真相は、私たちに重要な問いを投げかけています。警察組織の内部対立が引き起こした悲劇とは何だったのか。
国松長官狙撃事件とは?事件の概要と背景
1995年3月は日本の治安を揺るがす激動の月でした。地下鉄サリン事件の衝撃が冷めやらぬなか、警察庁長官が狙撃されるという前代未聞の事件が起きたのです。番組に出演した林修さんは「日本はもう安全な国ではなくなったという思いを強めた事件だった」と、当時の衝撃を語っています。
事件発生時の状況と犯行の特徴
3月30日午前8時31分、東京都荒川区の自宅マンション前で国松孝次長官が銃撃を受けました。犯人は約20メートル離れた場所から狙撃を行い、3発を見事に命中させています。この高度な射撃技術は、後に明らかになる犯人の執念深い準備を物語っていました。
普段は正面玄関を使う国松長官が、この日に限って通用口から出たことで、より近い距離での狙撃を許してしまいました。この偶然が、事件を大きく左右することになったのです。
国松長官という人物
国松孝次氏は、静岡県浜松市出身の警察官僚でした。東京大学法学部を卒業後、警察庁に入庁。1972年のあさま山荘事件では広報担当として頭角を現し、その後、兵庫県警本部長や警察庁刑事局長を歴任。57歳という若さで警察庁長官に就任しました。
しかし、就任からわずか半年で阪神・淡路大震災が発生し、その2ヶ月後には地下鉄サリン事件という未曾有の危機に直面することになったのです。
革命家の夢と挫折~中村泰の知られざる半生
事件の真犯人として浮上した中村泰の人生は、まるで一本の壮大な物語でした。
1930年、東京・新宿に生まれた中村は、幼少期を旧満州で過ごします。常に銃を手放せない緊迫した環境で育った少年は、やがて東京大学に進学。その類まれな知性から「ノーベル賞級の頭脳」と評される一方で、左翼思想に傾倒していきました。
チェ・ゲバラへの憧れと革命への情熱
26歳で銀行強盗を企て失敗、警官を射殺して無期懲役の判決を受けた中村は、刑務所で20年の歳月を過ごします。その間、彼はスペイン語を独学で習得。それは、革命家チェ・ゲバラの生涯を深く知るためでした。
医師から革命家へと転身し、39歳で処刑されるまで理想を追い続けたゲバラの生き方に、中村は強く心を動かされました。45歳で出所した中村は、自らもゲバラのような革命家になることを決意。ニカラグアの革命軍に参加しようと単身で渡航しますが、すでに内戦は終結期を迎えていました。
アメリカで磨かれた銃の技術
革命の夢を果たせなかった中村は、50代後半という年齢でアメリカに渡り、新たな戦いの準備を始めます。
射撃の技術を徹底的に磨き、「コルトパイソン」という特殊な拳銃や、殺傷能力の高いホローポイント弾を入手。これらの武器は、すべて分解してバッテリーチャージャーの中に隠し、日本へと密輸されました。
オウムから日本を守るための決断~中村泰が描いた壮大な計画
1995年、日本社会に大きな衝撃が走りました。オウム真理教による地下鉄サリン事件で6500人もの市民が被害に遭ったのです。当時64歳だった中村は、この事態に激しい怒りを覚えました。
サティアン突入計画と準備
中村は当初、オウム真理教の施設「第7サティアン」に単独で突入することを計画していました。そのために防毒マスクや防弾チョッキなどを用意し、新宿の貸金庫には大量の武器を備蓄。しかし、それは自殺行為に等しい計画でした。
テレビ朝日の取材で発見された証拠品の中には、実際に中村が準備していた防毒マスクや防弾チョッキが含まれていました。これらの装備からは、たとえ命を落としても教団と対決する覚悟が見て取れます。
警察への警鐘として選んだ狙撃計画
「警察が動かないのなら、自分が動く」中村はそう決意します。
しかし、サティアンへの突入では根本的な解決にならないと考えた中村は、より大きなインパクトを与える方法を思いつきます。それは、警察のトップである国松長官を狙撃することでした。
計画の目的は、警察組織に衝撃を与え、「このままではオウムに対抗できない」という警告を発することでした。さらに、オウムの犯行に見せかけることで、警察の捜査を加速させようと考えたのです。
狙撃のための入念な準備
レーザー距離測定器で現場の地形を調査
長官の行動パターンを徹底的に分析
40cmの特殊な銃床を自作して射撃精度を向上
逃走経路の下見を繰り返し実施
中村は、アメリカで培った射撃技術を存分に活かしました。現場から約20メートルの距離から、移動する標的に3発を命中させるという離れ業は、まさに「プロの犯行」と呼ぶにふさわしいものでした。
謎を解く”6つの秘密の暴露”と迷宮入りの真相
2002年、名古屋市での強盗事件で逮捕された中村は、次第に国松長官狙撃事件について語り始めます。その供述は極めて具体的で、犯人にしか知り得ない情報が次々と明らかになっていきました。
中村泰が遺した決定的証拠
事件について、中村は6つの重要な「秘密」を明かしました。たとえば、犯行に使用した青いバッグには実際に銃弾と同じ火薬成分が検出され、逃走経路にあった喫茶店のオーナーも不審な自転車の存在を証言。これらはすべて中村の供述と一致していたのです。
元警視庁刑事部捜査第一課長の佐久間氏は「200%の確率で中村が犯人だと確信している」と証言しています。しかし、警視庁上層部は「オウム真理教の犯行」という結論を既に決めており、中村の逮捕には消極的でした。
なぜ真相は闇に葬られたのか?警察組織の内部対立
事件の真相に迫る重要な証言を得ながら、なぜ警察は中村を逮捕できなかったのでしょうか。その背景には、警察組織内部の深刻な対立がありました。
刑事部と公安部の確執
事件の捜査を担当したのは警視庁公安部でした。公安部はオウム真理教対策のスペシャリストとして、当初からオウム犯行説に重点を置いて捜査を進めていました。一方、後から捜査に加わった刑事部は、証拠に基づいて中村説を追及しようとしました。
清田記者の取材によると、刑事部は中村逮捕のための逮捕状請求まで準備を進めていたといいます。しかし、警視庁上層部から「共犯者か拳銃の提出がなければ逮捕しない」という条件が突きつけられ、逮捕は見送られることになったのです。
テレビ朝日記者との6年に及ぶ文通
岐阜刑務所で服役していた中村は、テレビ朝日の清田記者との間で6年にわたって文通を続けました。その手紙の中で中村は、事件への強い思いを吐露しています。
「大義のために奮起して敢行した警察庁長官襲撃が、ど素人の集団でしかないオウムの連中の仕業とされたままその真相が隠蔽されていることに激しい憤りを抱いています」
この言葉からは、最後まで自分の行動を正当化しようとする中村の強い信念が感じられます。
明かされなかった真実
2010年3月30日、事件は時効を迎えました。警視庁は、中村の詳細な自供があったにもかかわらず、オウム真理教による組織的犯行という結論を公表。この判断には多くのメディアや識者から疑問の声が上がりました。
2024年5月、94歳で死亡した中村。彼は最期まで「オウムから日本を守るために行動した」という信念を曲げることはありませんでした。遺品として残された防毒マスクや防弾チョッキは、オウムとの対決を決意した孤独な革命家の痕跡として、静かに事件の真相を物語っています。
平成最大の未解決事件・国松長官狙撃事件の深層~オウムから日本を守ろうとした元東大生の壮大な計画【総括】
1995年3月30日、国松孝次警察庁長官が狙撃され重傷を負う
東大出身の中村泰が犯行を自供するも、逮捕には至らず
チェ・ゲバラに憧れ、革命家を志した異色の経歴
アメリカで射撃技術を習得し、特殊な銃と銃弾を調達
オウム真理教のサティアン突入も計画
6つの「秘密の暴露」で犯行の真相が明らかに
警視庁内部の対立により真相究明が妨げられる
2010年に時効成立、オウム犯行説で結論
テレビ朝日記者との6年に及ぶ文通で真相を語る
2024年、94歳で死亡するまで自らの信念を貫く
平成最大の未解決事件とされる国松長官狙撃事件。30年の時を経て、その真相は少しずつ明らかになってきていますが、なぜ警察組織がこの事実を認めることができなかったのか。その謎は、現代の日本社会に大きな問いを投げかけているのかもしれません。