古谷惣吉連続殺人事件【警察庁広域重要指定事件105号事件】

古谷惣吉連続殺人事件 105号事件

1965年11月 古谷惣吉連続殺人事件

※敬称略

1965年11月9日、滋賀県大津市の海水浴場で売店小屋の番人・大嶋馬吉(59歳)の絞殺体が発見された。

現場にはワイシャツが残されており、その持ち主は大沼伊勢蔵(68歳)と判明した。

さらに11月22日、福岡県粕屋郡新宮町で 英語塾教師・黒木善太(54歳)が物盗りに刺殺される事件が起こったが、やはり現場にネーム入りのズボンが残されており、これも大沼のものとわかった。

そして11月29日、神戸市の廃品回収業・大沼伊勢蔵(58歳)の小屋を訪ねてみると、死後経過1ヶ月ほどの大沼の絞殺体が発見された。

12月9日、警察庁は滋賀・福岡・兵庫の3件に渡る中高年者ばかりを狙ったこれらの強盗殺人を 犯行手口が似ていたことから「広域重要事件第105号」に指定した。

105号はこの指定制度ができてから5番目の事件を意味しているが、殺人事件としての広域重要事件指定はこれが最初だった。

警視庁の指令を受け警察は各地で一人暮らしの老人対象に警戒を強めていた。

そんな中12月11日、今度は京都の鴨川べりの2つの掘っ立て小屋から、死後10日ほどたった2遺体が相次いで発見されたのだ。

廃品回収業の市川清治(60歳)と広垣平三郎(66歳)である。
 
 
12月11日、捜査当局は福岡市内で発生した廃品業者襲撃事件の証言を元にモンタージュ写真を作っていた。

このモンタージュと殺害現場に残された指紋から、この一連の犯人が古谷惣吉(51歳)であることを割り出して、全国に指名手配をかけた。
 
 
古谷惣吉は12月12日、西宮市の海岸堤防脇の小屋で廃品回収業・奥村善太郎(69歳)と 山本嘉太郎(51歳)を襲って殺害した直後、偶然パトロールに回ってきた警官に見つかって、逮捕された。

逮捕後に古谷惣吉は、大阪府高槻市の高架橋下で生活していた山本正治(55歳)の殺害を自供し、供述どおり死体が発見されている。

これにより古谷惣吉は8人の連続殺人で起訴されている。

1971年4月1日、神戸地裁で古谷惣吉に死刑の判決が下され、1974年に控訴が却下、1978年11月28日に死刑が確定した。
 
 
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古谷惣吉、大阪拘置所内で殺人未遂事件を起こす

大阪拘置所に収監されていた1982年12月2日、古谷惣吉は同窓の死刑囚(39歳)に隠し持っていたはさみで襲い掛かり、1週間の怪我を負わせた。

原因は、自分がかわいがっていた若い死刑囚に対する嫉妬だったという。

ところが古谷惣吉は殺人未遂罪での追訴を免れた。

なぜなら、ここで裁判を始めれば、古谷惣吉の執行が延びるからだ。

そうなると ほかの死刑囚たちの執行順位が繰り上がる可能性も出てくる・・・古谷惣吉に刺された死刑囚にしてもそれは本位ではない。

執行順序の繰り上がりは 古谷惣吉を訴えることよりもごめんである。

そういうわけで、古谷惣吉はこの件で再度裁かれることを免れたのだった。

古谷惣吉の殺害人数は10人。執行年齢71歳は2006年12月まで最高齢

そんな紆余曲折を経て 1985年5月31日に古谷惣吉の死刑が執行された。

享年71歳。

執行された死刑囚としては2006年12月まで最高齢である(2006年12月25日に77歳と75歳が執行された)

実は古谷惣吉は1951年5月と6月に起こった福岡市内の一人暮らし男性の殺害でも捕まっていて 10年服役していたことから、生涯で10人を殺している凶悪犯だった。

そこまでのことをやっていても、古谷惣吉には人を殺したという罪の意識などはなかった。

あいにく宗教心も持ちあわせていなかったが 古谷惣吉は最後までこう信じていたそうだ。

古谷惣吉
自分は幸運な人間だから、いつかは助かるんだ
 

古谷惣吉の生い立ち


 
古谷惣吉は16歳だった1930年4月に窃盗で捕まって以来、34年間のうち29年10ヶ月を刑務所で過ごした筋金入りの「刑務所太郎」である。

そんな古谷惣吉は1914年に長崎県対馬の北部、志多留で 四人姉弟の一人息子として生まれた。

4歳で母をなくし、父は借金を残したまま朝鮮に渡ったため、惣吉は伯父に預けられていたが、小学校にも満足に通わせてもらえなかった。

伯父の家族とも折り合いが悪く、その腹いせに家出したり、納屋に火をつけたりして、問題児のレッテルを貼られていた。

6年後に父が島に戻ってきたが、父は再婚し、惣吉は継母と折り合いが悪かったので あまり家に寄り付かなかったという。

わら小屋で寝泊りしたり、農家に盗みに入って飢えをしのいでいた。

小学生の頃の古谷惣吉は 友達のものを平気で奪い取り、下級生をいじめる始末の悪い子供で、体が大きかったため喧嘩で負けたことがなかったという。

13歳のときに広島にいる叔母を頼って一家は広島に転居した。

古谷惣吉は旧制中学の夜間部に入ったが、教師を殴って中学を2年で退学させられている。

それ以来、唯一の係累である叔母との縁が切れてしまい、古谷惣吉の孤独な放浪生活が始まる。

その放浪生活は、窃盗生活の繰り返しで、古谷惣吉16歳のとき、窃盗で 懲役一年以上三年以下の判決を受け、岩国の少年刑務所に入れられている。

古谷惣吉が犯す窃盗の被害額はそれほど大きくはなく、そのときの生活に事足りればいい程度のものだったが、人を殺すようになってもそれは変わらなかった。

古谷惣吉は出所して2ヶ月あまりの間に8人も殺害したのだ。

そのときに必要な着替えとわずかの金のためだけに、人を殺し歩いていたのである。

古谷惣吉が殺害した被害者たちの多くが身寄りのない、社会の底辺で暮らす独居老人であり、古谷自身もそれが自分相応の生活圏だった。

古谷惣吉は橋の下や海岸の小屋などを訪ね、一宿一飯を要求し 断られると激怒して相手を殺害した。

そして汚れた衣類やわずかな小銭や残飯を盗んだ。

孤独で人生の大半を刑務所で過ごした「刑務所太郎」古谷惣吉は 弱肉強食の生き方しか知らなかったのである。

古谷惣吉には身寄りがいなかったため、手紙を書く相手は兵庫県警の退職刑事だけだったという。

死刑執行の5年前、古谷惣吉66歳のとき、元刑事に宛てた手紙に 短歌らしいものが書かれていた。

古谷惣吉
厚恩を背負いてのぼる老いの坂 重きにたえず涙こぼるる
 
 
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