あさま山荘事件 10日目の攻防戦

あさま山荘事件

via:http://mamechishiki.aquaorbis.net/

あさま山荘事件10日目の1972年2月28日、これ以上の持久戦は無理という判断が下されて、強行救出作戦が選ばれた。

クレーン車に吊った鉄球で屋根裏を破壊し、それに乗じて警官隊が突入する方法である。

この鉄球方式は佐々淳行元警視正の発案だという。

実はこの鉄球方式は東大の安田講堂の攻防戦で使うつもりだったのだが、国の指定文化財である安田講堂を壊すわけにはいかないという理由から、使用を見送られていた。

午前10時、機動隊のそれぞれの部隊は所定の位置について鉄球作戦開始。

鉄球がうなりを上げて山荘にめり込んでいくのを関係者もお茶の間の市民も固唾を飲んで見守っていた。

この事件はテレビで生中継されていて、NHKと民放をあわせた視聴率は89.7%を記録している。

あさま山荘事件 カップヌードル

さらに現場では配給食としてカップヌードルが配られ、機動隊員がそれを食べるシーンが映し出されたため、カップヌードルの認知度が一気に高まったという逸話もある。
 
 
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事件1日目・2月19日。さつき山荘事件からあさま山荘へ

あさま山荘事件 浅間山荘事件via:事件現場(大島てる)


 

1972年2月15日朝、連合赤軍最高幹部の森恒夫(当時27歳)と永田洋子(ながたひろこ・27歳)は都内のアジトで朝刊を見て愕然とした。

群馬山中に築いた「榛名ベース」が警察に見つかったのだ。

慌てた二人は「妙義ベース」に戻ろうとしたが、警察の捜査体制が厳しくなっており、あちこちの山中を迂回してアジトの洞窟にたどり着いたのは17日だった。

しかしそのときには、坂口弘(25歳)たち11人は、その前日の昼ごろにこのベースを放棄していた。

ところが途中で警官に遭遇してしまったため、車内に2人を籠城させている間に 坂口弘ら9人は長野県佐久市に向かった。

車を手放してしまったので昼夜を徹しての歩きでの山越えである。

via:連合赤軍事件まとめ

2月19日の朝に彼らが下山したのは、予定の佐久市ではなく、軽井沢の分譲地だった。

軽井沢では9人は二派に別れて行動した。

植垣康博(23歳)ら4人が街に出たが、風呂に入っていなかったため異臭を放っており、そんな連中を軽井沢駅売店の女性従業員が怪しんで通報し、彼らは電車に乗ろうとしたところを逮捕された。

2月17日に、森恒夫と永田洋子も洞窟近くで逮捕されていたため、警察は一帯の集中捜索が始めていたが、これにより4人が軽井沢駅で逮捕されたことをラジオのニュースで聞いた5人は言葉を失った。

ぐずぐずしていたら、今度は自分たちが見つかってしまう・・・そう思った5人…坂口弘(25歳) 坂東国男(25歳) 吉野雅邦(23歳) 加藤倫教(19歳) 高校1年生(16歳)は、銃と弾丸だけを持って、潜んでいた雪洞を後にした。

逮捕された4人の足取りを追っていた警察は、彼らがレイクニュータウン始発のバスに乗り込んできたことを突き止めた。

彼らの足取りは異臭が決め手となって、案外早く掴めたという。

そこで警察はレイクニュータウンを中心とした南軽井沢の別荘を徹底的に調べることに決め、47人の捜査員を10班に分けて捜索を開始した。

午後2時頃にパトカーをゆっくり走らせて別荘を一軒ずつ見ていくうちに、まだ新しいと思われる複数の足跡が「さつき山荘」に向かっているのを発見。

よくみると足跡は群馬県京都の県境に近い若草山のほうから建物のほうに続いていて、建物に入った足跡だけで、出て行った形跡がない。

足跡をたどってさつき荘の床下に入ると、ミシミシときしむ音がする…屋内で人がいる気配がする。

町田勝利分隊長はこれが連合赤軍なら銃撃戦になると考え、全員に拳銃の弾込めを命じた。

そして足跡が消えているベランダ北側の雨戸に近づき、右手で雨戸を開けた瞬間「バーン!」という銃声とともに、弾が右側頭部をかすめた。

隊員はベランダから飛び降りて散り散りに岩陰に身を隠した。

「抵抗はやめろ!」と叫びながら、町田分隊長が上空に向けて一発、威嚇射撃をし、パトカーに緊急連絡を指示。

さつき山荘の中からは犯人たちが間断なく撃ってくるので、弾が岩にあたり金属音を残して砕け散る。

捜査員は4人とも身動きが取れない。

応援部隊が到着するまで、犯人を釘付けにしておかなければと思った町田分隊長はもう一発威嚇射撃した。

十分ほどすると、犯人グループはさつき荘から飛び出して、銃を乱射しながら走り出した。

後を追いかけた永瀬隊員は急な斜面上方にそびえる別荘のバルコニーに人影を見つけた。

「あっ、いたぞ。銃を持っている!」と叫ぶと同時に銃声がして、永瀬隊員が悲鳴を上げた。

銃弾は永瀬隊員の背後から出動服のズボンを貫いていた。

犯人グループが警察の追跡に追い込まれるようにして逃げ込んだのが河合楽器保養所である「あさま山荘」だった。

警視庁はさつき山荘の銃撃事件から浅間山荘の人質事件に移る段階ですばやく対応していた。

普通は人質事件が起こると刑事事件として処理するものだが、犯人が連合赤軍という武装集団であることから 永野県警だけでは解決できないと判断し、警視庁はただちに応援部隊を編成したのだ。
 
 
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静まり返るあさま山荘をよそに、昼間に銃撃事件があったさつき山荘の現場検証が夜を徹して行われた。

山荘の中は食べ散らかした缶詰や脱ぎ捨てた汚いズボンやシャツなどが散乱していたので、ここで連中が着替えて逃走したのは間違いない。

押収された遺留品は猟銃5丁、猟銃やライフルの実弾40発、空薬きょう19個、鉄パイプ爆弾1個など計183点。

95個の指紋が採取された。

猟銃場番号から、真岡市の銃砲店から強奪された銃であることが判明。

犯人たちが残る銃を持ってあさま山荘に逃げ込んでいるのだとしたら、弾薬はまだ2000発以上ある可能性があると思われた。

これらの結果は軽井沢署で開かれた合同警備会議で報告されると同時に、そこで後藤田正晴警察庁長官の指示が明らかにされた。

一、人質は必ず救出せよ。これが最高目的である。

一、必ず公正な裁判で処罰するから、犯人を殺すな。全員生け捕りにせよ。

一、警官に犠牲者を出さないよう、最新の注意を払え。
 
 
山荘内にどのくらいの食料があるのかも作戦上の大切なポイントだった。

管理人・牟田郁男さんの話から 米20キロ、プロパンガスの大ボンベが4本、缶詰、みそ、しょうゆ、ビール、酒、ウィスキーが保管されていることがわかった。

この日の6人の宿泊客用として紅鱒やおでんが用意されていたこともわかった。

野菜や肉・魚などの生鮮食品は泊り客がある度に買っていたというので、この時、生鮮食品の買い置きは当日分しかなかったが それでもこれだけあれば相当の期間は持ちこたえられることは予想できた。
 
 
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事件2日目・2月20日

午前11時過ぎに、人質になった牟田泰子さんの夫・郁男さんが、装甲車の中から山荘に向けて呼びかけた。

「泰子、聞いているか。体の具合はどうだ?元気でがんばってくれ」

続けて午後にも泰子さんの親族らが装甲車の中から呼びかけをした。

ところがあさま山荘からは何の反応もなかった。
 
 

事件3日目・2月21日

午後5時頃から、連合赤軍メンバーの坂口弘と吉野雅邦の母親が「もし息子が山荘内にいるのなら…」と説得を申し出て呼びかけをした。

母親二人は警視庁のヘリで軽井沢に到着するとすぐに現場に行き、装甲車の中でマイクを握った。

二人の母親の説得は30分続いた。

この時点では さつき山荘内で採取した指紋から、あさま山荘内に吉野雅邦と坂東国男の二人がいることは確認されていた。

午後7時半頃、あさま山荘の玄関の付近で、一人の男が警察の規制線を越えて山荘に近づいていこうとして逮捕された。

男は新潟でスナックを経営する田中保彦と名乗り、人質の身代わりになるつもりだったと供述した。
 
 

事件4日目・2月22日

前日にすでにいくつか作られていた山荘玄関側の銃眼が、いつのまにか7箇所に増えていた。

これで外の動きがあさま山荘内から手に取るようにわかるようになったはずで、突入はいっそう難しくなった。

午前9時20分から吉野と坂口の母親が、浅間山荘の手前10メートルまで接近した装甲車の中から再び呼びかけを始めた。

するとしばらくして鋭い銃声とキーンという金属音を残して、銃弾が母親たちの乗る装甲車に当たって跳ね返った。

彼らは母親に重厚を向け、呼びかけに発泡で応えたのだった。

発泡にもめげずに母親の涙の説得は午前10時50分まで続けられたが、何の反応もなかったのでもうこれまでと、母親たちは現場を後にした。
 

誰か山荘のほうへ登っていくぞ!

こんな声が上がったのが午前11時過ぎだった。

見ると、山荘北側のがけをよじ登る一人の男がいる。

警官らしい装備をしておらず、逆にそんな無防備な警官がいるはずもないし、ではいったいあれは誰なんだ?

一般人だとすれば、どうやって厳しい検問を突破してきたのか?

そしてその男は隣の芳賀山荘の間を登って、浅間山荘南側の玄関前に姿を現した。

「危ないからさがれ!」という機動隊員の呼びかけに対して、こちらを向いた男は「うるさい!」と怒鳴り返した後、鋭い銃声がして、その男は仰向けに倒れた。

男はしばらく動かなかったが、やがてゆっくりと立ち上がると 頭を左右に振りながらフラフラと上の道へ出てきた。

そこへ大楯を持った警官が駆け寄り、後方に運んでいった。

「昨日の男がここにきている!」

男は前夜、軽井沢署に一度身柄を拘束された、新潟の田中保彦だった。

打たれて負傷した田中保彦は病院までの車中で警官にこう供述した。

田中保彦
あさま山荘のドアは手前に引くと簡単に開いた。
 
ドアのすぐ後ろには椅子や家具でバリケードが築かれており、泰子さんを呼んでも返事がなかったので振り向いた瞬間、玄関左側の壁の穴から撃たれた。

田中保彦が手術で取り出された弾丸は縦1センチ、横8ミリの38口径拳銃の弾だった。

田中保彦は玄関のバリケードを乗り越えてあさま山荘に入ろうとしたため、警察の回し者と見られて狙撃されたらしい。

手術後こん睡状態に陥り、再移送された病院で、田中保彦は事件解決後の3月1日未明に亡くなった。

連合赤軍あさま山荘事件で田中保彦さん死亡。民間人がなぜ!?

この日は機動隊の二人も銃撃されたので、1日に3人もの負傷者が出たことになり、捜査本部は重苦しい空気に包まれたという。 

そして午後8時10分、あさま山荘への送電が切られた。

犯人がテレビやラジオで情報を得ていることが考えられたからだ。

あさま山荘は真っ暗になったが、強力な投光機を当てられ、彼らを眠らせないように大音量を流し、山荘の屋根に向かって投石が夜通し続けられた。

これらに苛立ったのか、午後11時16分、浅間山荘の東側に設置されていた投光機のレンズが狙撃されて砕け散った。

浅間山荘の銃眼から狙ってレンズに命中されていることから、犯人の中にかなりの射撃の名手がいると考えられた。
 
 
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事件5日目・2月23日

午前7時をもってあさま山荘事件は 人質事件の国内最長記録を塗り替えた。

午前7時40分、浅間山荘の玄関が細めに開き、三人の男がバリケードの補修やドアの釘付け作業を始めた。

これで少なくとも篭城しているのは三人の男だということがわかった。

作業時間は15分くらいだったが、このことから犯人グループから最後まであさま山荘に立て篭もって抵抗する構えであることがうかがえた。

午前8時45分からは毎日恒例となった警察や肉親の呼びかけが始まるが、何の反応もない。

午後1時、野中本部長は記者会見を開いた。

野中本部長
本日の午後2時30分から作戦行動を開始する。

午後2時30分、発炎筒を合図に、三方向から一斉に行動が開始された。

強行偵察の始まりである。

三方向から23人、22人、15人の機動隊員が装甲車に守られながらゆっくりと前進する。

その支援部隊として機動隊員40人が待機。

玄関前の山の上にはライフル班9人が、銃眼に照準を合わせて狙撃態勢に入っている。

さらにその後ろには100人を超える記者やカメラマンが、樹木の間に身を隠しながら事態を見つめていた。

左右から進んだ装甲車は20分ほどで玄関前に接近し、隊員たちは大楯で身を守りながらあさま山荘へ接近し、突入ルートを発見するため、必死の偵察を続けた。

午後3時40分、表と裏から同時に投げられた発炎筒で、あさま山荘が白煙に包まれるのをきっかけに、初めて数発のガス弾が発射された。

一発は玄関のガラスを破って、裏からの一発は浴室に飛び込む。

ガス弾攻撃を受けた犯人たちは動き出した。

玄関ガラスの破られた部分に布団を積んで、ガス攻撃を防いでいるのが外から確認できた。

銃眼からのぞく銃の動きがあわただしくなり、南の玄関側から一発、北の裏側から2発、ベランダから一発の発泡があった。

午後4時30分に撤退を開始し、強行偵察は約2時間で終了した。
 
 

事件6日目・2月24日

午前5時から人質の泰子さんの肉親の呼びかけが始まった。

このときあさま山荘内で呼びかけを聞いていた泰子さんは せめてチラッとだけでも姿を出させてほしいと犯人たちに頼んだのだが、見せれば警察の勝ちになってしまうから、と冷たく拒否されたことが後に明かされた。

午前9時30からは坂東国男の母親が呼びかけを始めたが、犯人らは何の反応も示さなかった。

午前11時45分、二回目の強行偵察が始まった。

装甲車を前日より5台増やして8台にし、機動隊員は110人から135人に増員して 浅間山荘の左右四方面から行動を開始した。

あさま山荘のがけ下で呼びかけが始まると、3階北側のバルコニーに緑色の帽子をかぶった男が現れ、続いて3階東側の窓から白い鉢巻をした長髪の男が外の様子をうかがった。

その直後に玄関側から2発の発砲があった。

午後0時10分、各地点から発炎筒が一斉に発射され、あさま山荘全体が白煙に包まれたときに、それにまぎれて隊員が西隣の芳賀山荘まで接近した。

しかしそこから先は銃口が狙っているので前進ができないため、作戦は一旦中止され、隊員たちは楯を構えながら元の位置まで後退した。

午後3時40分、装甲車に拳大の石が積み込まれたあと、作戦が再開。

再び四方から装甲車があさま山荘に接近すると、あさま山荘内の人の動きもにわかに慌しくなった。

君たちが抵抗をやめないので我々は武器を使用する。
 
三階の玄関脇の換気口の所にいる者、君だ!
 
すぐに銃を捨てて出てきなさい!

犯人側は白いハチマキの男が北側のバルコニーに現れたり、玄関側から黒ずくめの男が発泡したりと、前日とうってかわって激しい抵抗を示した。

警察側はトタン屋根めがけて石や大型発炎筒を投げつけたり、放水車から初めての放水を始めるなど、攻撃の手をゆるめない。

午後4時35分には、それまでは雨戸を強くたたく程度だった放水が、玄関付近に向けられて、ドアのガラスを突き破った。

警察はガラスだけでなく中のバリケードも吹き飛ばしたかったのだが、犯人らが釘付けしたので扉はびくともしなかった。

犯人は放水されていない銃眼へ移動して発泡する。

放水で破られた箇所に警察はガス弾を打ち込み、あさま山荘がぐちゃぐちゃになっていった。

犯人は必死になって破損箇所を補修しようとするが、警察側はそうはさせまいと二台の装甲車を玄関前の道路に停めっぱなしにして、そのまま翌朝まで監視を続けた。

午後5時40分、作戦の中止命令が下され、依然として内部の状況が確かめられず、人質の安否も不明で、現地では泰子さんの体力はもう限界にきているとみる空気が強かった。
 
 
あさま山荘の玄関前を中心に銃撃に耐えられる前進拠点を作るべきだということから、急遽土嚢を積み上げることが決まり、3日間で2862袋の土嚢が作られた。

さらに強行突入の際の部隊編成も決められた。

あさま山荘内に突入して人質を救出し、犯人を逮捕する「制圧検挙班」を中心に、内部への突破口を作って支援する「破壊工作班」 ガス弾や放水等で支援する「直接支援班」 装甲車で支援する「特科車両隊」 他にレンジャー部隊や狙撃班も配置するという編成だった。

また、強行突入の場合のあさま山荘への突入部隊については、1階は警視庁第九機動隊、2階は長野県警機動隊、3階は警視庁第二機動隊という配置が決まった。

2階のカーテンが常にわずかながら揺れていたことから、犯人たちは人質とともに2階にいるのではないかと思われていたため、犯人たちを3階にひきつけて人質と分断し、その隙に2階に突入して人質を救出しようというのが警察が描いたシナリオだった。

2階に長野県警機動隊を配置したのは、長野県警の事件だったので人質救出の栄誉を与えようと思ったからだという。

九機は歴史が浅いので犯人が潜んでいる可能性がもっとも低い1階に、数々の修羅場を踏んでいる百戦錬磨の二機は 抵抗が激しいと予想される3階の正面攻撃にあたらせることにしたものだった。
 
 

事件7日目・2月25日

徹夜で作り上げた土嚢は25日の午前中に装甲車で前線に運ばれ、午後1時半過ぎから積み上げ作業が始まった。

ひとつの重さが30キロもあり、銃眼から数メートルしか離れていないため、作業は困難を極めた。

土嚢を持った隊員を大楯を持った隊員が守りながら一袋ずつ慎重に運ぶのだが、あさま山荘からは激しい銃撃を加えてくるのだから、なおさら作業がはかどらず、左右に320袋積み上げたときには午後5時を廻っていた。
 
 
あさま山荘の3階部分の攻略に「モンケン」を使うことが決まったのはこの日だった。

モンケンとは大鉄球のこと。

当時、モンケンは主としてコンクリートビルトの解体に使われていた。

この大鉄球作戦は、あさま山荘事件の現場指揮を取った佐々淳行氏が1969年(昭和44年)の東大事件の際、安田講堂に立て篭もる学生を排除する方法として思いついたものだったが、文化財の安田講堂を破壊することがまから通らず、許可されなかったいわくつきの方法だった。

今回は河合楽器の社長が、あさま山荘を壊してもいいから泰子さんだけは無事に救出してほしいと山荘の破壊を認めたため、初めて実地で使われることになった。

長野県内のモンケンをもつ建設会社との交渉が始まったが、銃撃戦を伴う中での作業だけに承諾したがる会社がない。

そんな中で「おもしろい。やりましょう」と快諾したのが、信州建設(仮称)の白田弘之氏だった。

白田弘之
電話で説明を聞いているうちに、戦争から帰ってきた年寄りが「鉄砲ダマの下を潜ったこともない奴が」とよく言ってるのを思い出し、これはいいチャンスだと二つ返事で引き受けることにした。
 
ただし絶対に社名を出さないようにしてくれという条件だけはつけた。
 
頼んで歩くのはこれが十社目だと言っていたが、あっさり引き受けたので、かえって相手が拍子抜けしたみたいだった。

この鉄球大作戦は極秘裏に進められ、大鉄球を吊るしたクレーン車が姿を見せるまで報道陣もまったく気がつかなかった。
 
 
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事件8日目・2月26日

この日は本格的な雪になり、大雪注意報も出て、放水用の貯水槽にも厚い氷が張った。

マスコミ各社はXデー(強行突入)近し、を感じ取っていた。

激しい吹雪の中、午後1時から土嚢積みの作業が再開され、夕方にまでは玄関東側に高さ1.2メートル、長さ5メートル、西側に高さ1.6メートル、長さ5メートルの警察側のバリケードが出来上がった。

そしてその夜は肉親たちの呼びかけと、犯人らを眠らせないための擬音騒音作戦が引き続き夜を徹して行われた。
 
 

事件9日目・2月27日

最後の土嚢積みの作業が午前11時半から始まり、午後3時過ぎには予定したすべての土嚢が積み上げられた。

また、あさま山荘に突入するためのはしごや掛け矢、つるはしなどを現場付近に運んで準備は完了した。

肉親による呼びかけは今までどおり早朝から行われたが、まったく無視されて、あさま山荘からは何の反応もなかった。

それまで「X作戦」と呼ばれていた2月28日の強行突入は「牟田泰子救出作戦」と呼ばれることになり、計画の最終打ち合わせと指示が出された。

佐々淳行
警察官は見物人になってはならない。
 
同志の受傷を防止するため、全員が努力してほしい。
 
彼らは銃による革命しかないと確信している。
 
そして連合赤軍の名を上げる革命のチャンスを狙っているが、我々は彼らが革命の英雄ではなく、国民の敵であることを立証しなければならない。

毛沢東の内戦方式は人民大衆に守られ期待されて成功したのに、連合赤軍は市民にそっぽを向かれ、市民を傷つけ、市民に警察に通報され、逮捕のきっかけをつくっている。

自分たちがゲリラだと思っても、どだい ゲリラになっていない。

こうなっては大衆から孤立した狂気集団というほかはないし、世論が許すはずがない。

via:朝日新聞 2月20日付

それにつけても、彼ら連合赤軍の行動はわれわれ市民の怒りを新たにする。

連合赤軍の本質は最初から犯罪者の集団であり、極度の反社会性を持つ異常者の徒党だったといってよい。

銃口から権力が生まれ、その権力を革命につなぐという彼らの“革命的行動”が、しょせんは犯罪のための口実にしかすぎないことは、今度の事件でいっそう明確になった。

この際、主婦・牟田泰子さんの無事救出に全力をあげるのはむろんのことだが、目的は最後の抵抗を試みる連合赤軍の一斉検挙にあることはいうまでもない。

via:読売新聞 2月22日付

立てこもり犯たちは情報がないながらも目の前の高さを増していく土嚢に、いよいよ機動隊が強行突入してくるであろうことを予測し、最後まで闘うことを確認しあい、どのように闘うかを話していた。

私は見張りを除く三人をベッドルームに集めて、対策を協議した。

坂口弘
何かいい脱出策はないか?
坂東国男
警官を人質に取ったらどうだ?
坂口弘
それはいい。ぶん殴って、縛り上げ、ベランダから吊るしておこう。
 
どうやって奴らを取るか。
坂東国男
左のほうの機動隊は緊張しているが、右のほうはたるんでいるから、右の方に爆弾を投げつけて、倒れた奴を中に引っ張り込もう。

そこで我々は厨房へ行き、厨房の壁に穴を開けることにした。

ところが、いざ穴を開けようとしたら、壁が硬くて歯がたたなかった。

こうした次第で、西側の芳賀山荘周辺にたむろしていた機動隊をやっつける計画は断念した。

(中略) 

吉野雅邦
玄関口にあるガス管を引いて、いつでも放出できるようにし、機動隊の突入があったら、充満したガスを爆発できるようにしておいたらどうだろう?
坂口弘
それはいい。やってみてくれ

吉野君はベッドルームを出て、大ホールのガス栓口を確かめにいった。

しかし、玄関口が広い上に、風通しがよくなっていることに気づき、ベッドルームに戻ってくると「無理なようだ」と言った。

冷静に考えれば、この計画もずいぶん荒唐無稽で、実行していたらベッドルームにいた我々もいっしょに吹き飛んでしまう危険が十分あった。

via:あさま山荘 1972

報道各社と報道協定が結ばれ、報道競艇は2月27日午前11時に発効し、テレビもラジオも新しい情報はいっさい流さなくなっていた。

そして2月27日午後10時から軽井沢警察署の道場に設けられた特設報道センターで強行突入についての記者会見が始まった。

会見に先立って「Xデーは2月28日」という大きな紙が吊るされると、場内から喚声ともため息ともいえない声が湧き上がる。

野中本部長
泰子さんの安否は今なお確認するに至らず、日を追うに従って過酷な監禁状態が続き、今や精神的にも肉体的にもこれ以上耐え切れない、極めて憂慮される事態に立ち至ったものと判断されるものであります。
 
このような状況判断のもとに警察は泰子さんの身の危険防止に最大限の考慮を払った上、これが無事救出と、警察官の犠牲を極力避けるという基本方針の下に、あらゆる事態を想定した上での万全の警備体制をもって あえて救出強行に踏み切る決意を固めたのであります。
 
国民各位のご理解とご協力をお願いする次第であります。
 
 
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事件10日目・2月28日

ある報道関係者はその日の朝刊に「浅間山荘に突入!」の見出しが載っていないことに驚いたという。

報道競艇でも、新聞だけは朝刊から強行突入の記事が解禁になっていたのだが、各誌とも一面は「米中、平和五原則で合意」の大見出しの米中会談で埋め尽くされていた。

午後9時半頃、強制突入決行30分前の警告が周囲の山にこだました。

山荘の犯人に告げる。君たちに反省の機会を与えようとする我々の警告にもかかわらず君たちは何の反応も示さない。
 
今こそ君たちの将来を決するときだ。銃で撃つのをただちにやめなさい。銃を捨てて出てきなさい。
 
話があるのなら銃を捨てて、白い布を持って警察官の見える場所に立ちなさい。

9時26分、「白旗を持って、警察官に見えるように立ちなさい」という勧告があった。

これを聞いてようやく今日、警察が強行突入する気でいることがわかった。

だが、どういう手段を使ってくるかは見当もつかなかった。

私は急いで朝食を作った。2日前に2升ばかり研いでおいた白米を野沢菜などの野菜と一緒に水に入れた鍋に入れ、その後しょうゆを注いでガスストーブにかけ、雑炊を作った。

我々が朝食を摂っている間、牟田夫人もベッドルームに置いてあったみかん1個を食べ、コーラを1本飲んだ。

バナナとリンゴが1個ずつ残っていたが、これらには手をつけなかった。

朝食が終わると私は4人のメンバーに向かって「今日は総力戦だ。ヤマになるだろう。頑張っていこう」と言った。

四人はうなづいた。

via:あさま山荘1972(坂口弘・著)

この後、犯人たち全員に、坂東国男から爆弾とマッチが1個ずつ手渡されたという。
 
 
午前10時、ついに野中本部長が無線を通して攻撃開始命令を発した。

野中本部長
各部隊は現時点をもって既定方針通り所定の行動を開始せよ。

そして「ただいまから実力をもって牟田泰子さんを救出する。無駄な抵抗は直ちにやめなさい」という警告が繰り返し流れる中、各部隊が一斉に行動を開始した。

この時点で報道協定は一部解除になり、警察の動きや作戦を自由に報道できるようになった。

午前10時7分、あさま山荘内から、この日最初の発砲があり、前進する二機の隊員の大楯に当たった。

それが合図のようにあさま山荘の北側から一斉にガス弾が発射され、一発が2階浴室のガラス窓を破って中に飛び込んだ。

あさま山荘の3階正面玄関付近では銃眼に向けて、二台の放水車からの放水も始まった。

その間隙をぬうようにして、突然山陰から大きな鉄球を吊り下げた奇妙な大型クレーン車が、あさま山荘西側の道路に姿を現した。

これは前夜の記者会見でも明らかにされていなかったので、報道陣は面食らった。

このクレーン車には運転席のほかに、モンケン(=大鉄球)を捜査するためのもうひとつの操縦席が後方に付いている。

このクレーン車を運転していたのは信州建設(仮称・社名を公表しない約束がなされていたため)の白田社長で、モンケンの操縦席には社長の義弟の白田五郎がいた。

クレーン車の出現に度肝を抜かれたのは報道陣だけでなく犯人たちも同じで、クレーン車に対して激しい銃撃を浴びせかけてきた。

白田
あさま山荘に向かって進んでいくと、運転席めがけて撃ってきた。
 
一発目は私の左目の前の防弾ガラスに命中した。
 
あとは数えられない。賑やかにガンガンガンガン当たるから。

白田氏は何事もなかったかのように当時を振り返ったが、爆弾だけは投げられたらおしまいだと、それだけが怖かったという。

モンケンは本来は、1本のロープで鉄球を吊り下げて横殴りにぶつけて建物を破壊するから、モンケンの操縦席が前になるようにクレーン車を玄関の東側からバックで入れさせてくれと白田氏は頼んだがこれは認められず、西側からの進入となった。

浅間山荘前に延びる電線が作業の邪魔になるので切っておいてくれとも頼んでいたが、これも実施されておらず。

そのためモンケンを通常通りの横殴りでなく、数本のロープで吊るして一度手前にひきつけて、振り子のように山荘にぶつけるという高度な技術が必要となった。

警察ははじめは自前で操作しようと思って隊員に練習させたのだがうまくいかず、専門家である白田兄弟に頼むことにしたのだった。

しかし民間人のままではまずいと思ったのか、白田兄弟はそのときだけ警官用のジャンパーを着せられたのだという。

白田氏
裏に赤いビロードが付いた立派なジャンパーだった。
 
階級によって違うらしく、周囲の警官がみんな直立不動で自分に敬礼するのでいい気分だった^^

記念にくれ!と頼んだがダメだった。

 
 
そして10時47分、大鉄球の第一打が打ち付けられた。

「グシャ」という音とともに玄関右上に直径1メートルほどの穴が開く。

犯人たちは今度は鉄球を吊り下げているワイヤーを狙って撃ってきたが、ピアノ線のような鋼製のワイヤーそのものが動いているのだから当たるはずがない。

続いて第二打、第三打が打ち付けられ、そのだび厳寒付近の破壊が進んでいき、3階から2階へ降りる階段部分が大きく壊れた。

そうやって3階と2階を分断し、犯人たちが行き来できないようにするのが鉄球作戦の第一目標だったのだ。

開けられた穴に向かって、今度は猛烈な勢いで放水が行われたが、バリケードが釘で打ち付けられているのか、びくともしない。

それでも、外から見ていた以上にモンケンは、あさま山荘内の犯人らに衝撃を与えていたのだ。

壁にモンケンがぶつかる度に床が大きくかしいで、立っていられない。

このときようやく、警察は強行突入して我々を逮捕する気でいることを悟った。

玄関横の壁はわずか五分で破られた。

間髪をいれず、穴めがけて放水が行われた。

放水中もモンケンを使った破壊作業は続行された。

玄関横の壁はほとんど壊された。

放水の水は容赦なくベッドルームに侵入してきた。

くるぶしから脛へと見る見るうちに嵩を増した。

足元で鍋、箱、花瓶などがぷかぷか浮かび始めた。

山腹の山荘でなんとも奇妙な光景であった。

11時6分、モンケンは壁から屋根の破壊作業に移った。

これがまたすさまじく、落下するたびにパリッパリッという音がして、数分のうちに青空がのぞくようになった。

破壊口の向こうにモンケンが姿を見せた。

直径50センチほどの鉄玉だった。

威力の割には小さいなと思った。

via:あさま山荘1972(坂口弘)

 
 
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午前11時10分、突入命令が出た。

警視庁二機、九機、長野県機の突入部隊125人が一斉に行動を開始した。

最も早く突入したのは、あさま山荘1階の制圧を命ぜられた九機である。

しばらくすると1回の左側の部屋の雨戸が開け放たれ、1階は3部屋とも機動隊が占拠したことが見て取れた。

九機の1回制圧は11時30分と記録されているが、その直前の11時27分に惨劇が起きた。

警視庁特科車両隊の中隊長・高見繁光警部が狙撃されたのだ。

高見警部が打たれた瞬間を2メートルの至近距離から目撃したのは、二機の上原勉中隊長だった。

高見警部は放水を負かされていて、指揮棒で目標を指し示しながら指揮をしていたのだが、頭がわずかに土嚢から出てしまった。

狙撃犯はその一瞬を捉えて撃った。

そしてドーンという音とともに高見警部が仰向けに倒れた。

高見警部が指揮していた場所はもともとの銃眼からは四角になっていたが、モンケンで破壊できた新しい穴が格好の銃眼となり、撃たれてしまった。
 
 
そんなさなかにも作戦は続行され、2階の制圧に向かっていた長野県機が突破口を開くため、破壊工作班が壁の破壊に取り掛かった。

1階2階の制圧を知って多少の焦りがあったのか 二機隊長・内田尚孝は、犯人の居場所は3階しかなくなったから、もう少しベッドルームよりのところを壊してくれるように無線連絡をした。

11時54分、内田隊長かそっと土嚢から顔をのぞかせた瞬間に、一発の銃声が響いた。

次の瞬間、内田隊長がしゃがみこんだ、今の一発で額を撃ち抜かれていた。

一瞬の出来事だった。

近くにいた佐々氏が駆けつけて「しっかりしろ!」と声をかけながら担架を見送った。

ラジオが「警視が撃たれました。重体です」と放送した。

すると牟田夫人がベッドから乗り出してきて「銃を発砲しないでください。人を殺したりしないでください。私を楯にしてでも外に出て行ってください」と叫んだ。必死の叫び声であった。

私は胸をグサリと突き刺された気がした。

しかしすぐに元に戻って「出れらない」と答えた。

そして洗面所側と屋根裏のメンバーに向かって、それぞれ「おーい、上の方(=内田隊長)をやったぞ」と伝えた。

via:浅間山荘1972(坂口弘)

 
 
午後1時29分、現場には「各隊は攻撃を一時中止し、現場を確保せよ」という命令が出された。

3階厨房まで進んでいた二機の十数人が大楯を構えてその場を確保する一方で、1階2階を制圧した九機と長野県機は15人の確保要員を残して山荘外へ撤去しようとしていた。

そして1時30分頃から本部者で作戦会議が始まった。

殉職者や多数の負傷者が出たことから、それまでの作戦行動の分析と態勢をどう立て直すか。

その会議では、一旦撤収して翌日やり直すべきだという意見と、あくまでもその日のうちに決着をつけるべきだという意見に対立した。

午後2時50分に、作戦会議ではその日のうちに強行救出作戦を終了する方針を打ち出して終了した。

作戦継続の理由は、すでに大量の放水で山荘内が水浸しになっており、モンケンによる破壊で山荘内に外気が流れ込んでいるため、このまま中止すると人質も犯人も凍死してしまう怖れがあること。

犯人側に態勢を立て直す余裕を与えてしまうこと。

さらに翌日にもう一度機動隊員の士気を高めなおすことは難しいことなどだった。

ただ作戦再開では、3階に入っている隊長を失った二機と、1階を制圧した九機を交代させることに決まった。

そしてもう一度気を引き締めると、午後3時半に開始予定の、3階突入への準備に入った。

そのとき、あさま山荘内部でどーんという腹に響く鈍い音がした。

犯人が爆弾を投げたのだ。
 
 
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作戦停止時間が長かったので、ベッドルーム突入は明日に延期されたかもしれない、などと甘い観測をしたのは覚えている。

2時40分頃、洗面所側の廊下で、厨房の機動隊の同棲を探っていた吉野君が私のところに来て「今、厨房に機動隊がたむろしている。爆弾を投げるチャンスだ」と言った。

いつもの彼に似ず興奮していた。

坂東君はウィスキーの空き瓶にストーブの灯油を注ぎいれ、それが終わるとポケットからマッチ棒を1本取り出して擦ったが、湿っていて火がつかない。

そこで5,6本束ねて擦ったところ、4,5回目にようやく火がついて、火炎瓶の芯に点火した。

私はこの着火火炎瓶を右手に、鉄パイプ爆弾を左手にそれぞれ持ってベッドルームを出た。

バリケードの残骸をぬって廊下を歩き、ホールの入り口をすり抜けた。

ホールに入ると4,5メートル先の配膳窓のカウンターを目指した。

ホールの中は椅子やベニヤ板、ソファーなどが散乱していて、足の踏み場もなかった。

これらに放水の水が凍り付いていて、一歩歩くたびにミシッミシッと鳴った。

(中略) よく見ると大楯の先端と厨房奥の戸棚との間にはジュラルミンの楯が渡してあって、爆弾の防護処置がなされていたのである。

どうしようかと思ってしばらく考えた。

何気なくふと上を見ると、厨房の天井に穴が開けてあった。

他に投げ込む場所がないので、一か八かこの穴に投げ込むことにした。

(中略) ホールを抜けてベッドルームのドア跡付近に来ると、カラン、カラカラッという勢いのよい落下音が聞こえた。

ちょっと意外に思った。屋根裏に落ちたにしては、落下の勢いがよすぎると思ったのだ。

次いで「うひゃー!」「爆弾だ!」という悲鳴や叫び声が聞こえた。

via:あさま山荘1972(坂口弘)

この爆弾で五人が負傷した。
 

午後4時30分頃、また催涙ガス弾が撃ちこまれた。

今度は猛烈で100~200発は撃ちこまれたと思う。

ベッドルームはたちまち橙色や白色の煙に包まれていった。

(中略) 牟田夫人にも大変な苦痛を味わわせてしまい罪深いことをしてしまったと、心から思わずにはいられない。

4時35分、警察側は、我々が催涙ガスに苦しんでいる間、屋根裏のE、F二つの銃眼およびベッドルーム上方に向け拳銃を連続6発発射した。

事件発生以来、初めての拳銃使用である。

(中略) 威嚇射撃のあと、またもや猛烈な催涙ガス弾が撃ちこまれた。

坂東君が「牟田さんを保護しなければならない」と言って、夫人を北側端の下段ベッドに連れて行き、左手上の窓を開けて夫人に外気を吸わせた。

via:あさま山荘1972(坂口弘)


 

 

 
 
午後6時10分、そろそろ放水の水がなくなるという報告で、九機隊長・大久保はついに最後の号令を発した。

「全員、突入せよ!」

その声が終わるか終わらないうちに放水で大きく拡がった穴から、副隊長伝令の遠藤正裕がベッドルームに真っ先に飛び込んだ。

その瞬間、バーンと言う銃声とともに、遠藤は膝からたまった水の中に倒れこんだ。

この銃撃で遠藤は右目脇から右耳上部に貫通する重傷を負った。

遠藤の勇敢な行動に奮い立った隊員たちは「遠藤に続け!」と喚声を上げながら、入り口側から4人の決死隊を先頭に、正面の穴からは九機隊員が、一斉にベッドルームになだれ込んだ。

部屋の北側隅の盛り上がった布団の山をめがけて、全員が殺到した。

思い切り楯を振り下ろし、馬乗りになり、布団の上から押さえ込む。

「あっ、いたぞ」「ここにもいるぞ」という怒号が飛び交った。

犯人たちは激しく抵抗しているが、まだ銃を持っている。

銃を持った手を振り払いのけながら、一人の手に手錠をかけようとした機動隊員が「おや?」と思った。

いやに手首が細い。

「私、違います」という女性の声。牟田泰子さんは無事だった。

泰子さんは顔面が血だらけの決死隊に背負われて、ベッドルームを出た。

そして救急車に向かおうとしたときに佐々淳行が「待て!」と大声でストップをかけた。

あさま山荘内に女性兵士がいないとは限らないのだ。

何人で立てこもっていたのかも、この時点では判っていなかった。

ぐったりとして意識が朦朧としている女性に佐々は大声で尋ねる。

「泰子さんですか。あなたは牟田泰子さんですか」

「はい、牟田泰子です」

佐々が自ら最終確認をして、実に218時間後、ついに人質が救出された。
 
 
山荘内にはもう犯人しかいない。

彼らは激しく抵抗を繰り返したので、ベッドルームに突入した隊員28人が総がかりとなった。

犯人は手錠をかけられても暴れ続けている。

隊員たちには同僚を二人殺された恨みもあるので、気持ちを抑えきれない隊員たちの拳が犯人に飛ぶ。

佐々淳行
君らの隊長や仲間を撃った犯人たちは必ず国が裁いて極刑にする。私的制裁は許さない!

TBSの公安担当記者・田近東吾は連行されていく5人についてこう語っている。

田近
あらゆるものを拒絶しているというか、あらゆるものから自分自身を隔離しているというか、何も寄せ付けない感じの厳しい顔をしていた。
 
極限を経験すると人間はこんな顔になるのかなあと思った。

国松孝次広報課長(=オウム真理教事件の頃の警察庁長官)は5人が本部車の前を通り過ぎるのを見ながら、声を上げて泣いていたという。

国松孝次
こちらは隊員を二人も殺されているのに、その犯人の全員が五体満足で出てくるなんてどういうことだ。
 
民主警察とは辛いものだと思うと、涙が止まらなかった。
 
 
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連合赤軍あさま山荘事件