小説「悪魔の詩」訳者殺人事件 (筑波大学助教授殺人事件)

悪魔の詩殺人事件

1991年7月12日午前8時40分頃、筑波大学助教授の五十嵐一(いがらしひとし・当時44歳)の遺体が、ひと気のない夏休みの筑波大学キャンパスで発見された。

五十嵐一さんは首や胸、腹などを鋭利な刃物で刺されていた。

首の左右の頚動脈と静脈が切り裂かれた、特殊な殺害手口だった。

エレベーターを降り立った清掃のおばちゃんが第一発見者で その惨状を見て通報したが、救急隊員が駆けつけたときにはすでに五十嵐さんの心肺は停止していた。

搬送先の病院で死亡が宣告されたが、あまりの凄惨さに医療関係者も愕然としたという。
  
五十嵐一助さんはイギリスで出版された小説「悪魔の詩」の日本語版の翻訳を手がけていた。

この事件の数日前にイタリアで「悪魔の詩」のイタリア語版の翻訳を手がけた翻訳家が何者かに襲われて負傷する事件が起きていたため、五十嵐一さん殺害の報道はすぐに世界中に広まっていった。

マスコミも一斉に大騒ぎとなった。
 
 
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1989年2月14日、イランの最高指導者ホメイニ師はイギリスで出版された「悪魔の詩」の内容がイスラム教の預言者マホメット(ムハンマド)を冒涜したとして、著者のインド系イギリス人作家 サルマン・ラシュディーと発行人に対し「処刑宣告」の声明を発表した。

そしてその翌日2月15日、イランのイスラム教革命機関が、ラシュディー氏を処刑した者に報奨金を与えると発表した。

報奨額は 実行者が外国人なら100万ドル(当時で約1億2700万円) イラン人なら2億リアル(当時で約3億7000万円)とした。

また「処刑実行の際に死亡した場合には殉教者とみなし、その家族の生活は財団が一生面倒をみる」と約束した。

さらにイランのハメネイ大統領までもがホメイニ師を支持する声明を発表したので、イギリスは暗殺の危機を回避するために、ラシュディー氏の身柄を保護した。

欧米はこの処刑宣告に対して「どんな意見であれ、自由な表現が保障されるべきだ」と激しく抗議し、大使を本国に召還するなど各国が対応に足並みをそろえた。

これに対してホメイニ師は「これは神の命令であり、たとえ経済制裁があろうとも変わることはない」と、死刑宣告を撤回しない意志を表明したため、その後、イギリスとイランの国交は断絶された。

1990年6月3日にホメイニ師は心臓発作で死去したが、それでもこの死刑宣告は撤回されることはなかった。

1990年9月になって、イギリスとイランの国交が再開された。
 
 
  
殺害された五十嵐一さんは小説「悪魔の詩」の文学性を高く評価していて、身の危険を顧みず、その翻訳を引き受けた。

五十嵐さんは知人に「何度か電話や手紙で脅迫を受けたことがある」と話していたが本人は意に介さず、地元警察からの警護の申し出は断っていたという。

事件発生の前日には、中東系の男2人が五十嵐一教授の研究室がある人文・社会系A棟7階を歩き回っている姿が目撃されていた。

事件当日、五十嵐一さんは胃の内容物の状況によって午後9時以降に殺害されたことがわかっている。

ところが普段、五十嵐さんは午後9時以降に仕事をすることはほとんどなく、いつも8時には大学を後にしていたという。

さらに不可解なことは、五十嵐一さんは2キロほど離れた宿舎へは学生が運転する車かタクシーを利用していたのだが、事件当日はタクシーを呼んでおらず、迎えに来る予定の学生もおらず、いつもとは違った行動をとっていたことが明らかになった。

また殺害方法が、イスラム教徒が羊を殺すやり方そのものであることもわかっている。

犯人は五十嵐さんを背後から切りつけ、胸や腹部を3ヶ所刺した後、刃を首筋に当てて頚動脈を切っている。

この殺害方法からもイスラム教徒による犯行の可能性が高いと思われる。

鮮やかな犯行の手口からイラン軍部のイスラム革命防衛隊犯行説も囁かれ、すぐに海外逃亡した可能性も濃厚だと思われた。
 
 
五十嵐さん殺害事件の3日後、バグダッドに拠点を置くイランの反政府組織が、ある通信社に 日本での五十嵐一さん殺害事件は「イランの聖職者が送った暗殺団による犯行」との声明を送ってきた。

その声明によると、数人からなるいくつかの暗殺団が組織されて「悪魔の詩」の著者をはじめ、日本、イタリア、スイス、フランスなど多数の国へ暗殺者を派遣したという。

五十嵐さん事件の数日前にイタリア・ミラノで起きたイタリア語版翻訳者の襲撃事件も暗殺団の犯行であるとも付け加えていた。
 
 
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警察の捜査は初動の段階から大きな壁にぶち当たっていた。

犯行当時が大学の夏休みだったため、A棟にはほとんど人がおらず、目撃者がいない。

犯人の血痕、足跡や指紋は残っていたが そこから捜査が大きく展開することはなかった。

ただ、ひとつだけ確実にわかったことがあった。

それは犯人の逃走ルートだ。

犯人が自ら負傷した血や被害者の返り血から逃走ルートが推測できた。

血痕は五十嵐さんが倒れていた7階のエレベーターホールから、エレベーター裏の中央階段の3階まで点々と続いていた。

3階からは廊下伝いに南西角のドアを入り、非常階段に続き、それを下りれば外の広場に通じている。

もしも2階まで下りてしまったら警備員が詰める1階出口を通らなければならないし、当夜は1階に人力飛行機作りの学生たちがいたこともわかった。

つまり犯人は建物の構造に精通しているとともに、事前に入念な下見をしていたことがうかがえた。

また、司法解剖からわかったこともある。

無数の切創からは殺意が感じられないという。

つまりはじめに刺されたのは致命的ではない部位だということだ。

しかし、頸部だけは執拗に刺している。

まず複数の切創で相手にダメージを与え、抵抗できなくしてから頸部を狙いとどめを刺す。

それが何を意味するか?

これは訓練されたものによる犯行、すなわち暗殺である。
 
 
当時事件に群がっていたマスコミは茨城県警に何度も同じ質問をぶつけたという。

犯行直後に日本を出国した不審者はいなかったのか?

犯行時間帯は、当初は、女性清掃人が発見する数時間前、7月11日深夜の可能性が高いとされていたが、11日の午後9時半頃には五十嵐さんの部屋は消灯されていたとの目撃証言が出てきたので、犯行は警備員が7階を巡回した午後8時10分から9時半頃にかけて行われたとの見方が強くなった。

もし犯人がイランの反政府組織の暗殺団であれば、普通に考えたら 犯行後にすばやく出国しているはずだ。

ところが茨城県警の幹部によると「不審な出国者は見つかっていない」という。

そんなこんなで警察は慎重に捜査を進めていったにもかかわらず有力な証拠を掴むことができず、2006年7月11日午前零時にに公訴時効が成立している。
 
 
でも実は、警察庁幹部たちの脳裏にはひそかに犯人の可能性が高いと考えられていた一人の男がいた。

そして1991年の事件直後に茨城県警は警察庁を通じて、入国管理局にその男(=出国者)の照会を行っていた。

その男は7月12日に、成田空港からバングラディシュのダッカ空港へ出国していた。

その男の出身国は、イスラム文化圏の国で、被害者・五十嵐一氏と同じ大学の留学生。

しかしこの事実が伝えられたのは茨城県警特別捜査本部のごくわずかな幹部だけで、しかも厳重な緘口令が敷かれたという。

さらに警察庁はICPO(国際刑事警察機構)へブルーノティス(=青色手配・各国に情報収集を求める措置)を依頼することさえしなかった。

それはなぜか?

この事件はわが国始まって以来のテロ攻撃だと考えたからだ。

警察庁の内部はこれを国際捜査の場に持ち出すべきだという「積極派」と、イスラム圏を敵に回したくない「国益重視派」に分かれて大激論が起きていたらしい。

「国益重視派」は日本とイスラム圏との間には忌まわしい黒歴史もなく、日本はイスラム圏の多くの国から石油などのエネルギー資源を依存すると同時に 有力な輸出先ともなっている、だから友好関係が保たれているのだ。

このメリットとICPOに公表するメリットと天秤にかけたら、どちらがわが国にとって有益で優先すべきか?

要するにICPOへの依頼はメリットが少なく、単なるパフォーマンスに過ぎない、とでもいうような感覚に近かったのだと思う。

日本には国際テロと闘おうという覚悟がないという現実を 彼らは熟知していたのかもしれない。

実際に出国した男が犯人だったかどうかはわかっていないので、これらの憶測が正しかったかどうかは断言はできない。

でもやはりこの男への疑惑はかなり濃厚だったのではないかと個人的には感じてしまうのだが、真相は藪の中から現れることはなさそうだ。
 

 
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