愛知交際2女性バラバラ殺人事件 (兼岩幸男)

愛知交際2女性バラバラ殺人事件 兼岩幸男

2003年、兼岩幸男の肩書きは、大手外食チェーン会社の開発部長だった。

そのほかに兼岩は 会社には内緒でリベートの処理とサイドビジネスのための会社を複数興していた。

連日ブランドスーツに身を包み、ベンツを乗り回し、ビジネスの現場を駆け回る兼岩幸男は自他共に認めるかなりのやり手だった。

家庭を持ち、二児の父であり、嬉々としてビジネスの現場を飛び回る、そんな精力的なエリート焼肉部長は、2人の愛人を殺めていた。
 

愛知交際2女性バラバラ殺人事件

 
兼岩幸男(当時44歳)がA子(当時49歳)の死体損壊および遺棄の容疑で逮捕されたのは2003年7月16日。

ひと月ほど前、岐阜県羽島市の長良川河川敷に黒いビニール袋に入った女性の左足が流れ着いた。

周囲の大掛かりな遺体捜索の中、遺体の身元が割り出され、その交友関係を手がかりに 捜査本部は兼岩幸男の内偵捜査を進めていた。

そして7月16日に逮捕と相成ったわけだが、逮捕後の兼岩幸男の自供は早く、間もなく木曽川の河川敷に埋められた頭部が発見され、この1ヵ月後に兼岩は殺人容疑で再逮捕された。
 
 
A子とは、兼岩が大手外食会社S社の開発部長として辣腕を振るっていた2002年3月に知り合った。

この会社は愛知県や岐阜県を中心に焼肉店を展開している。

二人が出会ったのは愛知県下で開かれた異業種交流会の親睦旅行だった。

A子はマルチ商法的な健康食品販売の実績を熱く語るうちに二人のビジネス談義が弾み、意気投合するうちに男女の関係になった。

A子は両親と京都府に住み、夫とは離婚して二人の子供を引き取って育てていた。

兼岩幸男のA子に対する感情は愛人の一人というドライな認識しかなかったが、A子のほうは本気だった。

A子
名古屋に行って、あなたと結婚したい。

A子は兼岩に会うたびに、こうせがんでいたという。
 
 
ある時、業務上付き合いが深いコンビニ運営会社で開発が始まっているフランチャイズ店にオーナーがつかなくて困っているという話が、兼岩の耳に入った。

すると兼岩は1000万円以上の投資を覚悟して、自分がオーナーに名乗りを上げた。

フランチャイズ店の運営は仕事ができるA子に任せようという算段だった。

紆余曲折があったものの、兼岩幸男のコンビニへの投資は上々だった。

売り上げもまずまずで従業員を支える程度の利益も上がり、京都からA子の息子を呼び寄せて店長の座に据えている。

仕事は順調だったが、A子はせっかく名古屋まで来たのに、望んでいた同棲生活ができないことが不満である。

兼岩幸男には元より家族を捨てる気などなかったが、一宮にアパートを借り、A子に引きづられるように半同棲生活を送るようになった。
 
 
A子との半同棲生活が始まって間もない頃、兼岩幸男にさらに愛人が増えた。

相手はS社の閉店した店舗を引き継いで賃貸することになった飲食店の女性経営者で、夫と死別し、女手ひとつで三人の子供を育てるシングルマザーのB子である。

賃貸後になかなか売り上げを伸ばせずに困っていた彼女の相談に兼岩は親身になって乗ってやった。

そして兼岩は まずは数百万円の援助をし、自分の会社に借金を付け替えて銀行融資の道筋をつけようともくろんでいた。

さらに彼女の持ちビルをテナント向けに改装するのにも手を貸していくうちに、男女の仲になった。

兼岩幸男はまめに二人の女性の間を行き来し、その合間をぬって 新築間もない我が家にも帰っていた。
 
 
2003年の晩春、兼岩幸男が役員をしている「愛北F」の登記簿が、所属している会社(S社)に送り付けられ、、兼岩が担当する出店事業に兼岩自身の会社が関与している事実が、上層部にばれてしまい、5月15日に それについて厳しい追及を受けている。

その10日後の5月25日。

A子
私と結婚する気なんてないじゃないの! 
 
あんたがそういうつもりなら会社に行って あんたが今までやったことを幹部にばらしてやって、私と不倫してることも全部ぶちまけてやる!
 
奥さんにも全部ばらしてやる!

兼岩の中ではA子の存在はあくまでもビジネスパートナーにすぎなかったが、A子のほうは違った。

兼岩幸男はとうとうA子をコントロールしきれなくなり、逆上した。

フロアにA子を押し出し、馬乗りになり、兼岩幸男は力任せにA子の首を締め上げて殺害した。

A子を殺害後、兼岩は急いでもう一人の愛人宅へ戻っている。

そして翌朝、兼岩はホームセンターに行き、大型カッターナイフ2本とビニール袋、スコップ、漂白剤、ビニール手袋を買って、A子の遺体が待つ部屋に戻った。

風呂場で遺体を解体する作業は半日かかり、夜が更けた頃、小分けに袋詰めした遺体を車に積み込んだ。

翌日、兼岩は土地勘のある岐阜方面の川原を目指して町を走り抜けた。
 
 
2003年10月、岐阜地裁で兼岩幸男の初公判が開かれた。

兼岩はA子に対する殺人、死体遺棄、死体損壊をあっさりと認めた。

ニュースで兼岩幸男の実名報道がなされたあと、三重県桑名市周辺に住む兼岩の知人たちが騒然としていた。

兼岩の知人
驚いた。まさか、C子ちゃんも!?

兼岩幸男が昔ブライダル会社を経営していたころ、彼と長年交際していた女性がC子(主婦・43歳)だった。

1999年12月にC子の夫から捜索願が出されていたが、このC子も行方不明になって久しかった。
 
この初公判から3日後、兼岩幸男がC子殺害を自供し始めたことで、事件は連続バラバラ殺人事件へと発展した。

兼岩は実は13年間もC子と付き合っていたという。
 
 
スポンサーリンク



 
 

兼岩幸男の生い立ち

1957年、兼岩幸男は名古屋市千種区で生まれたが、しばらくして一家は三重県桑名市に移り住んだ。

兼岩幸男は桑名の地元高校に進み、大学受験に失敗して すぐに陸上自衛隊に入っている。

陸自に6年10ヶ月勤務し、1983年1月に除隊したときには駐屯地の人事と文書を取り扱う人事陸曹だった。

高卒で入隊して最高に出世したとしてもせいぜい三佐(旧軍でいうところの少佐)までしか昇任できないことを知り、自分の一生が見えてしまったと感じた頃に、兼岩幸男は父親の古い友人の社長の学習教材関連会社に入る決意をし、営業マンとしての再スタートを切った。

しかし1年後に支店長まで出世した頃、会社は倒産してしまった。

桑名に戻った兼岩は、前の会社で身につけた営業力を生かすべく、損保会社の地元代理店に入社した。

そこへ2年遅れて研修性として入社してきたのが、行方不明になっていたC子である。

支店のトップセールスマンになっていた兼岩がC子の直属の上司となった。

C子は兼岩よりもひとつ年上で、3人の子を持つ主婦だった。

一緒に営業に出歩く二人は昼食やお茶を共にする機会が増え、打ち解けた話をするようにもなり、出会いから4ヶ月ほどで二人は男女関係になった。
 
 
1990年、兼岩幸男は損保会社を退社して、桑名にブライダル会社を設立した。

設立当時はまだ損保会社に勤めていたC子を、兼岩はすぐに呼び寄せて一緒に働きだした。

当時はまだバブル景気に沸いていて、ジュエリー販売や出会い系パーティーは大当たりだった。

そんな中 1992年に兼岩幸男は、業務を通じて知り合った女性と結婚した。

兼岩はこれまでにC子との結婚を考えないわけではなかったが、夫との離婚に踏み切れない彼女に失望と苛立ちをつのらせつつ、兼岩は捨て鉢になって自分の身を固めて見せたのだった。

それでも兼岩とC子の間は切れなかったが、二人のいさかいはエスカレートしていった。

夜半の事務所で酒に酔ったC子が、兼岩の目の前で発作的に手首を切って自殺を図ったこともあったという。
 
 
それにしても、兼岩のブライダル会社の絶頂期は短かった。

やがて会社には度々クレームが舞い込み、ついに名古屋弁護士会館に専門の相談窓口が開設されるほどだった。

1994年末には信用を失墜し資金繰りに窮して、兼岩のブライダル会社は1億2000万円近い負債を抱えて破綻した。

そんなときに、兼岩夫妻には双子が誕生した。

ブライダル会社等産後も、兼岩幸男とC子の関係は続いており、借金に苦しむ生活をともにしていた。

金策に翻弄する日々に、兼岩はしばらく妻子の下に身を寄せ、C子との仲は終わったかのように見えた。
 
 
1996年初冬、銀行のパート行員として働いていたC子から別の男性ができたと告げられたとき、兼岩は心をかき乱された。

自分の生活がいっぱいいっぱいのはずなのに、兼岩は妻の親族から100万円借りて、海部郡蟹江町にC子を住まわす部屋を借りている。

それでも兼岩の気持ちは落ち着かず、C子が別の男性をつくることを懸念して、銀行パート以外のバイトを辞めさせた。

最初のうちは蟹江町のC子の部屋に通っていた兼岩は、勤めていた運送会社の仕事が夜間シフトに切り替わると、ほとんど同棲状態になっていた。

このときC子は、完全に家を出た状態だった。

自己破産していた兼岩幸男は妻子の生活費にも事欠き、C子のクレジットカードを度々利用していた。

その信販会社はC子が勤める銀行系列で、引き出した金が返済できずに、C子が勤め先に対して気まずい思いをすることも度々あった。

兼岩は切羽詰るとC子の名義で消費者金融にも頼らなければならなかった。

戸籍上の妻ではなかったが、C子は兼岩幸男の浮沈の時代を共に歩んでいた。
 
 
スポンサーリンク



 
 

愛人C子の殺害

そんなC子が殺害されたのは、1999年8月15日…会社倒産から4年後である。

8月16日は兼岩幸男が幹部社員として中途採用された会社の初出勤日だった。

その会社は回転寿司店等を展開する大手外食チェーンで、業界では名の通った企業だった。

兼岩が役員面接を受けたのは1週間前で、提出した履歴書の最終学歴は「慶応大学卒」だったという。

8月15日、兼岩の足はC子の部屋に向かっていた。

その2日前、カード決済日に金策が間に合わず、二人の間では諍いが起こっていたため、兼岩はとげとげしい関係が疎ましく感じていた。

C子
お金を調達できたの?女一人囲えないのに、大きな顔するな!

この言葉に兼岩幸男は激昂し、C子に馬乗りになって首に手を回し、一気に締め上げ、絞殺した。

兼岩幸男
借金と共に、女がこの世から消えてなくなればいいと思った。

・・・と、後に検察官はこのときの兼岩の胸中を法廷で読み上げている。
 
 
翌日兼岩幸男は、何事もなかったかのように新しい職場に初出社した。

そして会社から彼女の部屋に戻ったその晩、C子の遺体を浴室に運び、解体し、黒いポリ袋に小分けにした。

その一部はアパートのごみ置き場へ、残りはごみ焼却場や、名古屋市中川区の草むらにほうり捨てた。

しばらくして、愛知県小牧市の焼却場から、焼けた女性の首が発見されたというニュースが流れたが、女性の身元特定は難航し、事件はすぐに忘れ去られていった。

入社1ヵ月後、兼岩は新規の出店店舗の企画を扱う本社の開発部長に抜擢された。
 
 


 
 

荒れた裁判

兼岩幸男の裁判は、大方の予想に反して長期化した。

一度は罪状を認めた兼岩が、第11回公判から、事件を根底から覆す証言に転じたからだ。

最初のC子殺害については「本当は、C子は自殺していたのだ」と兼岩は主張した。

検察側
ではなぜ、その彼女の遺体をバラバラにして捨てる必要があったのか?
兼岩幸男
自分でもまるでわからない。
 
 
2件目のA子殺害については

兼岩幸男
包丁で無理心中をはかろうとしたA子に抵抗し、はからずも起きた事故だった。

強引で不当な警察の取調べにより「連続バラバラ殺人」が捏造されたのだ!との告発は審理を長引かせた。

が、それで起訴状の事実を白紙にすることはできなかった。

2007年2月23日に岐阜地裁は兼岩幸男に死刑判決を言い渡した。

被告側はこれを不服として名古屋高裁に控訴し、精神鑑定の請求をしたものの それは認められなかった。

2008年9月12日、名古屋高裁は一審判決を支持し、控訴を棄却した。

名古屋高裁
重要な事柄を控訴審で主張し始めること自体、不自然極まりない。

名古屋高裁は法廷を散々低迷させた新事実を切り捨てたのだった。

被告側は納得せず、上告。

2011年11月1日の最終弁論で、弁護側は1999年8月5日のC子ついては「殺害ではなく自殺だ」と主張し、2003年5月25日のA子については「刃物を持って襲ってきたため首を絞めた。正当防衛か過剰防衛が成立する」と訴え、無期懲役が相当であると主張した。

一方で検察側は上告棄却を求めていた。

そして2011年11月29日、兼岩幸男に死刑判決が確定した。

最高裁
不倫関係にあった女性を殺害し、3年9カ月後に再び同様の事件を起こしており、犯罪傾向は顕著だ。
 
いずれも冷酷、残忍な犯行で動機に酌量の余地はなく、2人の命を奪った結果も重大。
 
被害者に特段の落ち度もなく、死刑はやむを得ない。

2017年8月現在59歳の兼岩幸男・死刑囚は、現在、名古屋拘置所に収監されている。
 
 
スポンサーリンク


[via]朝日新聞 読売新聞 毎日新聞 産経新聞 週刊新潮 週刊文春   戦後ニッポン犯罪史   日本凶悪犯罪大全   戦後事件史データファイル   現代殺人事件史   昭和・平成 日本の凶悪犯罪100   殺しの手帖   日本殺人巡礼